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  • 小説「なんで、私が乳がんに?」

    40代、独身をこじらせている社畜、美咲に乳がんが発覚。ネガティブな要素しかない美咲の悪戦苦闘と周囲の人々との交流、恋を描くユーモア小説。

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小説「なんで、私が乳がんに?」(35)

病院でたくさんの素敵な方々と会った。 ベテラン看護師の野間さんは、たいそう美しい女性だ。すらりと背が高く、目鼻立ちのはっきりした華やかな顔立ちに、アシンメトリーなショートカットが生き生きとした個性を際立たせている。 彼女は、ある日ふらりと病室を訪れ、「足湯しませんか?」とお湯を入れた大きなたらいを持ってきてくれた。そしてラベンダーの香りのアロマオイルを入れたお湯で、足をマッサージしてくれた。 これが、メンタルヘルス科のお世話になったほどメンタルがやばくなっている患者へのヒー

    • 小説「なんで、私が乳がんに?」(34)

      病室のドアをノックする音。 すわ、白衣の王子こと、東村先生の診察?と満面の笑顔でふりむくと、そこには「マッド・サイエンティスト」こと高井先生の姿があった。なんだ…と一気に素に戻る。 同じ主治医でありながら、関西人おなじみ551蓬莱のCM「あるとき」と「ないとき」くらいのテンションの違いだ。 新人の女医さんを従えている。女医さんは明るいカラーの巻き髪に、白ではなくピンクの衣服をまとい、足元はキティちゃんのスリッパである。美咲の脳内プロファイルによると、「実家が開業医で、兄弟姉

      • 小説「なんで、私が乳がんに?」(33)

        病室に、医長とおぼしき高齢男性を頂点とし、渡り鳥の群れのように三角を形成した白衣の一団が現れた。これは、ドラマ「白い巨塔」でおなじみの「財前先生の総回診〜」のリアル版ではないか?とワクワクした。 まあ時代も違うのだろうし、ここは大学病院ではないのでそこまで権威主義な雰囲気は感じられない。 雁の群れの2列目くらいに位置している東村先生は、群れを抜け出して言った。 「組織検査の結果出ましたけど、やっぱり非浸潤でしたのでね、安心してくださいね。」 ああ、よかった。不幸中の幸い、顔面

        • 小説「なんで、私が乳がんに?」(32)

          夜中に疼痛で目が覚める。手術後、大胸筋と小胸筋の下に、それぞれ血液や漿液を集めるドレーンという管が差し込まれた。 管の先には、透明な四角いサコッシュのようなビニール袋がついている。この袋に液体が貯まる仕組みだ。透明なので中の血の色が見えていてかなりグロテスクである。 腕には点滴、下半身には尿を採る管も入っていて、体中管だらけだ。 左胸と左腕は動かないよう、幅の広いバンドで胴体に固定されている。 天井を見ながら、がんと一緒に悪いものや嫌なことは全部切り取って持っていってもらっ

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        • 小説「なんで、私が乳がんに?」
          36本

        記事

          小説「なんで、私が乳がんに?」(31)

          両親に手を振って手術室に入った。扉が閉まるとまた涙が出てきた。典型的な症例かつ他の選択肢はないことはよくわかっている。わざわざ2万円ほどかけて他院でセカンドオピニオンまで聞いた。すべてにおいて理解し、納得した上の手術である。早い段階で見つかったことはむしろ不幸中の幸いであったとも思っている。なのになんだろう、この涙は。無念泣き(不運に対して)、とか申し訳なさ泣き(親に対して)、というジャンルがあるならそれだろうか。そして情けな泣き(「なんでよりによって私?なんで?」という、何

          小説「なんで、私が乳がんに?」(31)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(30)

          いよいよ入院だ。準備は万端。 大きなスーツケースを転がしながら入院受付にたどり着いた。 いや、これは入院受付ではない。リバーサイドにあるホテルへのチェックインだ、と自分に言い聞かせる。 個室にはバストイレ、小さな冷蔵庫もある。うん、窓から銀杏並木や川も見渡せるし、清潔で快適だ。ふんぱつした個室の特権を活用すべく、さっそく持参したアロマをたいてリゾート感を演出した。 今日は手術前日の検査だけなので気楽だ。 PCで仕事のメールをチェックしたり、ちょっとしたワーケーションののりであ

          小説「なんで、私が乳がんに?」(30)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(29)

          手術までにしておきたいことがもうひとつある。オリジナルの左胸があるうちに、ヌード写真を撮ることだ。 これはアラーキーの写真集の影響が大きい。また、最近マタニティフォト、妊娠中のヌード写真を撮影するのが流行っていて、芸能人のみならず一般の人々も気軽にSNSなどに投稿する風潮があるのも後押しした。 もちろん美咲は他の人の目に触れさせることなど毛頭考えていないが、44年を共に過ごした左胸への慰労と感謝といおうか。左胸とて、引退記念に、なんらか爪痕を残しておきたいのではないだろう

          小説「なんで、私が乳がんに?」(29)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(28)

          入院までにいちど「ひだまり」に行っておこう。週1~2回は行っているので、2週間顔を見せないと心配されそうだ。しばらく忙しくて行けないとでも言っておこう。店主の明子さんに今日、行きますとLINEしておいた。 仕事が終わってから店に行くと、仲のよい常連さんがたくさんいた。先に登場した橋本さんや歯科医の中井さん、今年社会人デビューしたばかりの神谷くん(若いのに昭和文化に憧れている江戸っ子)、美容師の美菜ちゃん(自称元ヤンキー。気配りこまやかで懐が深い)、運送会社で事務をしているな

          小説「なんで、私が乳がんに?」(28)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(27)

          海外旅行用の大きなスーツケースを持ち出した。 まずは「手術のマストアイテム」からだ。病院から、術後の胸と腕が動かないように固定するためのバンドを用意するように言われている。また術後は当分ブラジャーができないので、ソフトなタイプのブラトップ。カップはポケット状の部分に出し入れでき、あってもなくても使えるようになっている。診察のための脱ぎ着がしやすいよう前開きのマジックテープ式になっている。よく考えられている。これらは乳がん患者用のグッズ専門店のネットで購入した。しかし生産ロッ

          小説「なんで、私が乳がんに?」(27)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(26)

          社畜生活も20年を越えるが、2週間も休みを取るのははじめてである。人生初のロングバケーションが新婚旅行でもなんでもなく、こんな形になるとは。 課の部下たちには入院のため2週間休むが、大した病気ではないのでそうっと休んでそうっと帰ってきたく、内聞にしてほしい、と伝えた。最初の数日は無理だが、3日ほどたてばPCは開けるので、リモートワークとでも思っておいてほしい。外部の関係先にも病院から連絡すればわからないのでとくに言わない。しばらく迷惑をかけるが、サポートをお願いしたい。病名に

          小説「なんで、私が乳がんに?」(26)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(25)

          そろそろ仕事関係のダンドリだな。職場で心を 閉ざし、「一見社交的なひきこもり」を通してきた美咲にとってはこれもなかなかな関門である。 とりあえず部長に話をすることにした。60歳手前の西川部長は、お堅い社風のわが社には珍しいタイプの自由人といおうか、ライトなノリの人である。 仕事は切れ味があるのだが、なんとかと天才は紙一重といおうか。 働き出したばかりの頃、趣味で当時流行りのGS、グループサウンズのコピーバンドを結成して「ジェリー」を名乗り、長髪でエアギターを担当していた

          小説「なんで、私が乳がんに?」(25)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(24)

          帰宅すると、郵便受けが溢れそうになっていた。 父親からA4サイズの分厚い封書が届いている。 開けてみると、乳がんについてネットで検索した参考資料の束だった。プリントアウトして、ここが大切!と父親が思った部分に付箋やマーカーでご丁寧に印が付けてある。調べないと気が済まないところはやはり親子だな、と思う。資料のほとんどは美咲も既にネット上で見たものばかりで、心苦しいがそのままゴミ箱に突っ込まれることとなるだろう。アナログ派の父親の労力が痛ましい。美咲は自分のことだから必死にな

          小説「なんで、私が乳がんに?」(24)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(23)

          奈々ちゃんは続けた。 「乳がん手術の後でいい人と出会ってつきあったり、結婚した人、たくさんいるよ。恋愛が関係なくなっちゃうなんてことないよ、考えすぎやって。」 奈々ちゃんはスマホで検索して、画像を見せてくれた。 「これ、ぜひ見てみてほしいな。」 それは「いのちの乳房」というタイトルの写真集だった。 乳がんを宣告された女性たちのために「乳房再建手術」の経験者たちがつくった写真集で、写真家・アラーキーこと荒木経惟氏が乳がん手術後、乳房再建手術で乳房を取り戻した女性たちの

          小説「なんで、私が乳がんに?」(23)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(22)

          居酒屋に入ったものの、美咲は禁酒中、奈々ちゃんは日頃からアルコールを一切口にせず、体が冷える食物も避けている。ふたりして温かいお茶と、焼き鳥や湯豆腐、焼き茄子などヘルシーな料理を頼む。 「今日診察室に入ってきた顔見たとき、『大丈夫かな?』って思ったよ。」と奈々ちゃんが言う。 「そんな切羽詰まった様子だった?」自分では気づいていないがすごい形相になっていたのだろうか。 「んー、まあこんな風に話せるからちょっと安心したかな。」 「奈々ちゃんは最近どうしてたん?」 そこか

          小説「なんで、私が乳がんに?」(22)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(21)

          美咲のもうひとりの医者の友人、奈々ちゃんは内科医だ。去年近くのビジネス街に、西洋医学に東洋医学の漢方を採り入れた治療をするクリニックを開業したばかりだ。メンタルの不調に連動した体の不調を改善するということで、ストレスフルなビジネスパーソンや女性ならではの不調に悩む人、不妊治療まで患者さんは幅広い。美咲は乳がんの診断後、心に余裕がなく、特に不調ということでもないのだが欝々としており、とにかく話を聞いてほしくて診療時間終了の間際にクリニックを訪れた。奈々ちゃんと会うのはほぼ1年ぶ

          小説「なんで、私が乳がんに?」(21)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(20)

          さて、次は同じ病院内の「見た目問題」担当、形成外科の先生の診察だ。 乳がんの切除手術は乳腺外科の東村先生、そのまま形成外科の高井先生にバトンタッチして、乳房再建用のエキスパンダーを埋め込む、という段取りなのだそうだ。手術は前半2時間、後半1時間くらいだそうだ。 高井先生の診察室のドアを開けた。 歳の頃は東村先生と同様50と少しくらいだろうか。「変わり者です」というオーラを全身から放っている。櫛を入れた形跡のないもじゃもじゃ頭で、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を鼻先にひっか

          小説「なんで、私が乳がんに?」(20)