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小説「なんで、私が乳がんに?」(24)

帰宅すると、郵便受けが溢れそうになっていた。

父親からA4サイズの分厚い封書が届いている。

開けてみると、乳がんについてネットで検索した参考資料の束だった。プリントアウトして、ここが大切!と父親が思った部分に付箋やマーカーでご丁寧に印が付けてある。調べないと気が済まないところはやはり親子だな、と思う。資料のほとんどは美咲も既にネット上で見たものばかりで、心苦しいがそのままゴミ箱に突っ込まれることとなるだろう。アナログ派の父親の労力が痛ましい。美咲は自分のことだから必死になっているものの、他の人のためにここまでの熱意を傾けられないだろうと思う。

「病院の手術症例集ランキング最新版」、主治医の東村先生が雑誌の取材で乳がんについてお話している記事、はては乳房の再建術についてまでみっちり調べてある。再建術は症例写真などがあったりして、老人とはいえ男性である父親にこんなことまで調べさせているのかと思うと、可哀そうなような、少し不快なような、微妙な気持ちになる。

美咲はこどもの頃にも、小2か小3だったか、かなり早い段階から父親と風呂に入るのをやめた。昔から他人にはもちろん、肉親に対してもかなり広めのパーソナルスペースが必要な性質だったのだろう。性を連想させることにも過剰に羞恥心が強い。四十路も過ぎて、いまだに生理用品さえ女性店員のいる店でないと買わないくらいだ。(ちなみに美咲は自分と同じ傾向を持つ人の波長を察知しやすい。密かに「無駄ナイーブ仲間」と名付け「あの人もか」と勝手にシンパシーを感じている。)入院時にも当然のこととして個室を選んだ。こんな不安定な状態のときに、同室の方々に気を遣ったり遣われたりするなんて、考えただけでもつらい。

そんな無駄ナイーブな美咲ではあったが、父親にお礼の電話をかけることにした。話が乳房再建の話に及び、

「ところで再建はどうするか決めてるの」と聞かれた。

全摘からシリコンインプラントの再建にするという話をした。

父親の知識レベルは既に美咲と同等だった。

「お父さんも全摘がいいと思う。部分切除は君にはサイズ的に向いてないし」小さいってことか。私の胸を見たこともないくせに。しかしこんな知識まで付けているところが嫌だ。

父親は美咲の嫌悪感をかぎ取り、慌ててフォローするように、

「ああ、でも広背筋を使って再建する場合は君みたいな痩せ型は向いてるらしいね」と言った。

美咲はさらに、乳頭は逆サイドなど(インシンの話は割愛した)からの移植を先生は薦めているが、なんともない方にメスをいれるのも抵抗があって、迷っている、という話をした。

すると、父親はぽつりと

「そうか・・・。お父さんの乳首でよかったら、いくらでもあげるんやけどなぁ。お父さん、もう別に乳首なんていらんし・・」と言った。

美咲は大笑いしながら、

「ありがたいけど、謹んで辞退するわ。乳首のドナーが80代男性で、しかもそれがまたピッタリだったりしたらショックやし。・・・いくらでもって言うけどふたつしかない乳首なんだから大切にしといて。じゃあまた電話するね」と電話を切った。

美咲はずっと笑いながら泣いていた。父親っていうのはなんてありがたい、切ない存在なんだ。この先の人生でも、父親以上に無償の愛を注いでくれる異性なんて見つかるわけがない。父親の愛情は皮肉にも、美咲に絶望的なまでに深い孤独の淵を覗きこませた。

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