私も、作品づくりの「根っこ」が中国での旅路にあったと気づいた
「何気ない日常を発信し、しあわせを実感できる人を増やしていきたい」そんな気持ちを原点に、ほぼ毎日noteを書いています。
私は、書くこと・思考することが大好きです。気づきや感情を言葉にして、noteに書くことで、読んでくださる方々とつながると良いなと思っています。
ですが、正直書くスキルはまだまだで、上を見ればきりがありません。スキルを身につけたい気持ちと、誰に何を届けたいのか揺れる気持ち。今も自問自答は続いています。
そんなとき、コルク代表の佐渡島さんの記事を拝読しました。私も同じような体験があることを、思い出したのです。
ヒントが見つかった、気がしました。
振り返ること今から20年前、私は青年海外協力隊(現JICA海外協力隊)の一員(看護師)として、中国四川省に滞在していました。
看護師としての活動の方針が見いだせず、気持ちが低迷していたころ。
任地から片道4時間の汽車に乗って、同じ境遇で活動する友人に会いに行きました。片道4時間ながら、一番近隣に住む友人です。
彼女は笑顔で迎えてくれました。そんな彼女もまた、同じ悩みでいたのです。医療制度や慣習の違い、価値観の違い、言葉の壁や方言の存在など、多くの課題はそのままに、できることを探します。
友人と壁打ちする間に、少し糸口が見えてきました。存分に英気を養い、友人と別れて駅に向かいます。翌日は出勤予定でした。
帰りの4時間はのんびり車窓を楽しもう、と思ったのもつかの間。汽車の中は、乗客で混雑していました。座る席はありません。しかも汽車の床には、蜜を吸い終わったサトウキビが一面に投げ捨てられています。
仕方なく、デッキの床に座りました。隣の旅客と肩寄せ合う状況。今から身動きできない4時間を過ごすと思うと、先が思いやられました。
ふと、手元に文庫本があることを思い出します。任地を発つ時に、日本語の先生(中国人)が貸してくださったのです。
先生の本棚には、日本語の本が多くありました。先生は「無性に、日本語の本が読みたくなるときがあるから」と話します。
夏目漱石の『坊っちゃん』『こころ』、川端康成の『伊豆の踊子』『雪国』、太宰治の『人間失格』『富嶽百景』などが並んでいました。異国の地で純文学なラインナップと再会し、たいへん驚きます。日本の情緒や風情の豊かさをつづる作品の数々に、改めて心打たれるのです。
今回、手にしていた本は、山崎豊子の『大地の子』でした。
日本人作家による「人」の描写は、一部目を覆いたくなる酷さでした。ですが、この本をずっと手元においていたのは、まぎれもなく、いつも力を貸してくれた中国人の先生です。先生の懐の大きさや、物語の中でやむを得ない事情に翻弄される主人公たちの生きる姿、世界に通じる普遍さといったものに圧倒された4時間だったのです。
一方、目の前の客車内では、非日常的な光景が広がっています。ひっきりなしに続く、サトウキビ売人と車掌さんの口論。デッキに座っていても、溜まる一方の疲れ。明日からの活動への不安が押し寄せてきます。一度は道が開けたはずなのに。逃げ場はありません。
できることといえば、せめて物語の世界に逃げ込むこと。一心不乱に、本を読み続けました。同じ中国を舞台にしたストーリー展開。途中、どこまでが現実で、どこから物語がわからなくなりました。
主人公の生きた世界に没頭した4時間の旅路。私は、心底、読書に救われたのです。読書の原体験になりました。
と同時に、中国においても、私たちと何ら変わらない普遍的な暮らしが息づいていることに気づきます。
朝になると目覚め、日中はそれぞれ生活のために働き、夜になると眠りにつきます。家族や友人を大切にし、困った人を手助けし、協力し合う姿。朝日のきれいさに心打たれ、休日を楽しみ、一日の終わりに集ってだんらんする姿。
異国の地で過ごした日々は、日本で過ごす日常とほとんど変わりありません。
佐渡島さんは、以下のように言います。
普遍的な暮らしと、自分との接点。読書に没頭できた時間。それらを言葉に変換して、思考する過程のすべてがいとおしく感じるのです。
私自身も、書き続けたいと心を新たにしました。
佐渡島さんの言葉を借りるなら、
『私は、かつて異国の汽車で一心不乱に本を読んでいた自分に届くような、文章を書きたい。』と思うのです。
何気ない日常に光をあて、気づきを言葉にするこころみ。誰かの心に届くように、抽象化したり、社会化したりして言葉にするこころみ。
今もまた、試行錯誤の連続。
大きなヒントを糧に、書き続けたいと思います。
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