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君たちはどう生きるか

前書き

僕は一応、勉強を教える仕事をしているので、それなりには勉強しています。

勉強というのは誰もが通ってきたものです。「全く勉強したことがない」という人はまずいないでしょう。

しかし、それが「教養」として身についているかは別の話です。そうでなければ、それは「勉強した」とは言えないと思います。

先生であっても「ああ、この人は1秒も勉強したことがないんだな」と思わされることは多く、往々にしてそういう人は声がデカいです。

頭が悪い人ほど、権力を欲しがるものです。だから彼らは手に入れたらそれがゴールで何もできない。

色々とうんざりしていた頃に、目の前の子どもたちだけはそうなってほしくない、と願って書いた文章です。


今度もまた、高校生にはふさわしくない例だが、昔の大学生は授業をサボってパチンコ屋に出かける者がたくさんいたらしい。

それは最高学府の東京大学においても例外ではなく、本郷のパチンコ屋には東大生があふれていたようだ。

ただし、彼らに最も人気があった景品は、なんと「岩波新書」だったというから驚かされる。

なぜ、そこまで「学び」に飢えていたのだろう?

この画像のメッセージが分かるだろうか?

これは「学ぶ」ということの本質を風刺した秀作である。

おそらく、左側の人の「勉強していない人」の方が「幸せ」だと思う。学ばない人は、物事の「きれいな」表面しか見えないのだから。しかし、これはホモ・サピエンスとしての「人間」の姿ではないのだ。

 ジョージ・オーウェルという人が書いた小説の中に、「1984年」という恐ろしい作品がある。

その世界に生きる人々は、平和で、楽しく、何不自由なく「幸せに」暮らしている。

しかし、実はそこに生きる人々は、初めからそのように生きられるように、全員が統制されていて、不満を感じる者はそうならないように徹底的にプログラムされるのだ。

これを「人間」と呼ぶ気になる者は、おそらくいないだろう。

世の中には人権、つまり「人間の権利」を声高に叫ぶものは沢山いるが、その「人間」について考える人はあまりいない。

辟易するが、首肯せざるを得ない。
もとより、疑問を抱く余地すら与えられていないのだから。

口当たりの良さや分かりやすさを求める大衆と、「自分だけは同類ではない」と錯覚した指導者が世にあふれ、「学問」や「教養」なんて言葉は最近は聞かなくなってしまった。

今度の選挙も然りだ。ある新聞社は衝撃的な黒塗り記事を掲げていたが、既に死んでいるのはどちらなのだろう。

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