制作と創作(完成しかけのデータをゴミ箱に入れて考えたこと)

文化祭の出し物を、最初からつくりなおすことにした。

昨年の文化祭で制作した30ページほどの雑誌は、反省はあれど、我ながらよくできたと思う。

伝えたいテーマをもとにいくつかの企画を考えて、写真を提供してもらい、紙面構成やデザイン、ライティングや編集作業までのすべてを自分でやった。印刷した部数はほぼすべて、来場した方々の手に渡っていった。

日本エレキテル連合文化祭2023 出展作品「electric union ISSUE001」

その経験がほんとうに楽しかったから、今年も深く考えず、同じフォーマットでやろうとした。そして、見事に失敗した。

無理やり進めようとして時間だけが過ぎ、だんだんと「満足できるものが作れないかもしれない」という悲しみと焦りで、データを開くたびにため息をつくようになっていった。あたりまえだ、表現のほうに目的を合わせようとしていたんだもの。

あ、これ、そもそも去年みたいにやろうとしたのが間違えていたんだ。だからずっとしっくりこないんだ

文化祭当日まで残り一ヶ月もなくなっている日、メンバーシップ限定の配信を見ることもできずに頭から布団を被りながらそんなことに気づき、そのままベッドから這い出て、それなりに完成に近づいていたデータを全部消した。ゴミ箱も空にして、後戻りのできない状態になった。

そしたらかなりすっきりとした気持ちになって、白紙を見つめながら、現職で学んだことを思い出した。

私は、超ざっくり言うと、ある企業のマーケティングの部署でコピーライティングの仕事をしている。誰が困っているのか、もしくはなぜその人にサービスや商品を選んでもらう必要があるのか。その人はどんな性格で、どんな生活スタイルで、ものを選ぶときにどんなことを考えるのか。その人に前に進んでもらうためには、何をどのように伝えればいいのか。そんなことを考えて、形にする仕事。

今月で退職するので、その節目としても、学びを書き残しておこうと思ってこれを書いている。


仕事で学んだ、制作のお作法

Who/Why→What→Howの順番で考える

誰に・なぜ、何を、どうやって。これを呪文のように唱えていれば、「制作」において間違えることはほとんどない。

「Who(誰に)」「Why(なぜ)」を考えた先に、はじめて「What(何を)」「How(どうやって)」が見えてくるのであって、「◯◯をやったらよさそう」「とりあえず何かやってみよう」から始めると、十中八九いい結果にはならない。

身近な状況を例にすると、こんな感じ。

子どもが体調を崩している。夜に薄着で寝たせいか、お腹を冷やしてしまったようだ(Who/Why)。お粥だけでも食べてもらい、薬をのませることにした(What)。少しでも食欲が出るように梅干しを入れて、小盛りにしてあげよう(How)。

たとえば、「誰に」「なぜ」の解像度が低いと、こうなる。

「お母さん、なんか気持ち悪い気がする…」「あら、そうなの? さっぱりしたものなら食べられそう? りんごとかゼリーとか」「うん…」「わかった。買ってくるからちょっと待ってて」→腹痛悪化🥲

これはあくまで例なので、相手が「冷たいものを食べるとお腹が痛くなる」ということを理解していれば起こりづらい状況だけど、世の中の人はこの子どもみたいに、自分が欲しいものをあんまり理解していない

「私はお腹が痛くて食欲が出ません。あたたかいお粥を少しだけなら食べられそうなので、そのあと薬をのもうと思います」というレベルで自分の痛みと解決策を説明できる人はいなくて、ほとんどの人が「なんか気持ち悪い」と思っている。それを理解して、適切な「何を」「どうやって」を提供してあげるのが私の仕事だった。

もうひとつの例。

僕の恋人は控えめで、目立つのはあまり好きではない性格だ(Who)。もうすぐ付き合って3年になるので結婚を考えており、記憶に残るようなプロポーズがしたい(Why)。彼女が好きだと言っていたブランドの指輪を(What)、記念日に思い出のレストランで渡そう(How)。

これを「How(どうやって)」から考えてしまうと、「フラッシュモブでサプライズするの、めっちゃ面白そう。プロポーズで俺もやっちゃお」みたいなよくある悲劇が起こりうる。

WhatやHowに正解はないので(ここでのフラッシュモブみたいに明らかな間違いはあっても)、「なぜ記憶に残るプロポーズがしたいのか?」を考えることで、別の選択肢が出てくることもあると思う。「将来つらいことがあっても、そのときのことを思い出してふたりで乗り越えていくため」とかだったら、彼女の好きなデザインの指輪を一緒に選びに行く、とかもあるし。

届けるべき人に届けよう、さもなくば潔くやめよう

「Who」を突き詰めて考えてみたら、じつはそんな人はいなかった、なんてこともよくある。

やりがちなのは、「架空の誰か」にとらわれてしまうこと。

「ペルソナ」と呼んだりもするけれど、Whoを考えるあまり、想像力が変に豊かになりすぎて「ぼくのかんがえた理想の相手」を生み出してしまうことがある。いくらその人にドンピシャで届くであろうものが完成したって意味がない。だって存在しないから。

もうひとつのあるあるな状況は、誰かの持っている悩みの内容を勘違いしていた、というもの。

自社のサービスを使っている人にアンケートを実施したのでリアルな声を聞けたと思っていたけれど、実はこちらがほしい回答を引き出すような設問を作ってしまっていたり、「回答者に抽選でギフトカード1,000円分プレゼント」とかに釣られてテキトーに答えた人が大多数だったり、みたいな(やったことあるわね)。

あとは、たしかにその悩みを抱えている人はいるんだけど、数が少なすぎて費用対効果が見合わない、という状況。100人のお客さんがいたとして、95人がぼんやりと悩んでいることとあとの5人が強烈に悩んでいることだったら、95人にアプローチするほうが影響が大きい可能性が高い。

自分を満たすためだけにつくるものであれば、正直ここまで考える必要はないけど、もし対価をもらって制作をするとき、誰もいない場所に向かってひた走るのは避けたい。それがどんなに素敵なラブレターでも、ボトルに詰めて海に流したら愛する人には届かない。宛先を書け、ポストに投函しろ。

「創作」をやってきた人は、Howの罠に落ちやすい

多くの場合、創作活動は「」から始まると思う。ある書き出しから物語を始める小説家、あるセリフを思い付いた漫画家、あるフレーズから発想を広げる作曲家。

私はそういう、点から始まる衝動の発露が大好きで、たったひとつでも光っている部分があればいいじゃん、と思っている。自分が愛していればいい、数人に好きって言ってもらえたら最高。それは本当にそう。

ただ、こういう「点を発想することの気持ちよさ」に慣れている人が制作を仕事にすると、自分が好きな表現を手癖でやってしまいがちになる。私もそうで、しばらく一緒にプロジェクトをやっていた先輩に「それは点では正しいけど、線では正しくない」「Howから考えないで」と言われつづけて、

(なにをおっしゃってるのか一個もわからん)

という気持ちでズビズビ泣きながら仕事していた時期がある。なんかいい感じのコピーを書くことは得意だったけれど、それが誰の何を解決するための表現なのか、考えられていなかった。あれから時間が経って、少しはわかるようになりました。ありがとね。

この世には、点から始めても多くの人に愛されるものを生み出すことができる天才がいる。奇跡的に大衆にヒットしてバズる作品だってある。でも、天才ではない大多数の人が、せいぜい数十人を楽しませる以上に多くの人が必要としているものを届けたいと思うなら、「誰に・なぜ」の呪文はそれなりに有効だと思う。

あと、日常のコミュニケーションにも応用できるので、この考え方ができるとちょっと生きやすくなる(気がする)。

天才ではない私はどうするか

とはいえ、届けたい相手に迎合しすぎて、自分がまったく好きだとは思えない表現には意味がない。私がやりました、と胸を張って宣言できないようなものをつくるなら、Howの部分はAIにまかせておけばいい。コスパよく最適解を生み出すことが目的の場合、それは正しい。

私は私のつくるもので気持ちよくもなりたいし、できるだけたくさんの人に見てもらいたい。欲張りだけど正直な気持ち。だから、仕事でおぼえた大事な呪文を忘れず、作り手としての自我もうしなわないで、制限の中で遊ぶ。天才ではない私は、そんなふうにやっていく。

ところで、こんな長文を書くなら文化祭の準備したらいかがでしょうか…?

「ぱんだ倶楽部」というふざけた名前で出店します

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