なぜ書くのか?
不安定が嫌いだ。
しかしながら、日常生活を送る中で、不安定になりそうな場面が酷い時には1日何回もやってくる。
例えば、街中を我が物顔で歩くハトが、明らかにエサもないのに地面をついばんでいる謎のシチュエーションなんかに出くわした日には、不安定になること必至である。
別に、ちょっとの間だけなら、この謎を放置していても全くもって問題ない。しかし、長らく放置しておくと大変なことが起こる。
それは、ふとした瞬間に頭の中に?が思い起こされ、そして、時間と共に大きくなり、最終的に???で頭一杯に埋め尽くされ、お釣りを貰ったことで満足して肝心の商品を置き忘れるといったような、コントでしか見ないような行動さえ引き起こしてしまうのである。
だから、そんな状況に陥らないためにも、私にはすぐにやることがある。
それは、”google先生などの検索エンジンを駆使して、直ちに疑問を解決すること” である。
その行動により、答えを素早く見つけ出し、不安定な状況に突入するのを幾度となく未然に防いだことか。
因みに、『ハトが地面をついばむのは、小石をお腹の中に入れて胃の中の消化物をすり潰すため』だそうで・・・。
こんなマニアックな答えまで、先生は用意周到に回答してくれるんですから、なんてホントすげ~なと。
しかし、である。
時に、先生のツンデレの "ツン" が暴走する時がある。
例えば、あまりにマニアックな個人的な疑問だったり、誰もが知らない新情報を訪ねた日には、さすがの先生も『あなたのお役に立てません・・・』と言うのをプライドが許さないのか、しれっと明後日の情報をとりあえずその場しのぎで出しきて、何とかその場を繕おうとしてくるのである。
それを見て私は、『どうしたものか・・・』と思い悩む。
そして、悩みに悩んだ挙句、面倒だけど、情報を求めて書店や図書館に足を運ばざるを得ない状況となり、行った先で目に付いた本を片っ端からめくることで何とか目的の情報に辿り着いて、喜びで思わずランニングマンしそうになるならまだいい。
でも実際は、書店や図書館をハシゴした挙句に全くかすりもせず、何のためにやってきたのかとならないようにするために、『健康のために散歩している最中に寄り道した』と話をすり替えるという寂しい作業を行ってしまうことが大半である。
でも、肝心の答えを見出せていないままだ。つまり、心の心底納得いっておらず、不安定領域に突入開始。
しかし、何としても不安定だけは阻止しなければならない。不安定を阻止して、誰も笑わない安いコントの上演を未然に防がなければいけないのである。
そんな時、どうやって納得すればいい?
私は、
勝手に決め付ける。それも自信満々に。
人は不安定なものに対しては嫌悪感を抱き、未知なものに対して恐れを抱く。
だから、直ぐにでも答えが欲しい。何かにすがりたい。知っている人がいたらバシッと言い切って欲しい。
そんな状況だと思う。
でも、誰も持っていない。私が求めるマニアックな答えは。
だからこそ、自分で妄想を膨らませて、答えを用意する。
自分で答えを用意するんだから、全部正解である。これは合法的なカンニングだから全く問題ない。料理研究家の服部先生が、調理師試験を受けて失格になるのとは訳が違うのである。
そして、和田アキ子は言うまでもなく、冷戦中の姑も、その時ばかりはきっと許してくれる。いや、笑って許してくれると願いたい。
安心感を得たいなら、この際、妄想でも何でもアリである。
まとめると、
『答えがわからないものに対しては、勝手に答えを作りだして納得する』
という作戦だ。
さらに安心感を上乗せしたいのなら、作り出した答えを文章化するともっといい。
書き出すことで、文字を目にすることができ、潜在意識に正しいことと思い込ませることができるからだ。
だから、私は書く。
書いて、納得して、安心感を得たいから。
そして、もう一つは、単純に面白いから。
自分で言葉にできないと思っていたものを言葉に表せた時、少しニヤリとしてしまう。
でも、言葉にする時はスムーズにはいかない。運慶・快慶が、大木の中に仏像の姿を見出して、単にそれを掘り出すといったような簡単な作業ではないのである。
一つ一つ正しい言い回しか調べたりとか、調べている途中でwikiリンクに引っ掛かって、延々関係のない言葉を興味本位で見てしまうということは日常茶飯事だからだ。
そういう困難があるからこそである。
正直、これを書き終えるまでどういう文章になるのかわからない中で書き始めた。そして、書き終わった後に、どういう文章になっているのか見るのが少し楽しみだった。
感想、まあいいんじゃない。