『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を読んで思ったこと
この本のあとがきにある通り、『この本は確実にコスパが良いので、ぜひ「はじめに」から読んでいただければと思います。』(P238)
読書感想文を書くのは中学生以来なのだが、おそらく一般的なフォーマットとしては、①著作の背景の説明→②あらすじの紹介→③思ったこと、という流れになるだろう。
しかし、私はDickinsonの詩を扱ったほかのノートを見てもらえればわかるとおり凝り性なので、このフォーマットに乗せようとすると、完璧な①②をこしらえようとするあまり面倒くさくなって、結局未投稿に終わる気がするので、かなり意識的に③から始めたいと思う。
思ったこと① ファスト教養を身につけて、本当にそれでビジネスになってるの?
本書では、ドイツ教養主義とか古代ギリシアの教養概念にさかのぼることは意図的に避け、日本の近現代に絞って論を展開している。そこで対立的に捉えられているのは、「古き良き教養」(利益のためではなく、自らの存在の深さを耕すためにのみ学び続ける、というような自己目的的な姿勢の教養)と「ファスト教養」(教養がビジネス的成功の手段化しており、自己の世界観を根本的にアップデートすることを志向するのでなく、ビジネス相手と話を合わせるために大雑把に「全体」を知ればよい、という姿勢での教養)だ。
私は自らの「教養」を使って仕事をしたことがないので全然わからない[1]のだが、そもそも、「ファスト教養」によってビジネスがより成功するものなのだろうか。営業で来た相手と話が合うから契約、という仕組みで日本社会が回っているのだとしたら、まずそこが不思議だと思う。A社の営業さんと多少気があったところで、A社のネジが1本10円でB社のネジが1本8円ならB社と契約するだろう。——そういう単純に比較できないビジネスパートナーの選定に際して、教養の有無が差を分けるのだろうか? それこそ、そういう高次な判断において、小手先でとりあえず身に着けた雑学など、役に立ちそうもないと思ってしまうが。
「少しでも競合他社や同期に対して差を付けたい!」という、「ファスト教養」学習者個人の切実な思いはわかるが、そんなことよりビジネスの勉強をした方がいいんじゃないの? と思う。本書の中で紹介されていた、勝間和代氏の「基本的なビジネススキル(英語、会計、IT)をまず身につけ、しかるのちに教養を身につけよ」という意見には少し賛同できる。しかし正直英語・会計・ITそれぞれに無限の奥行があるのだから、「教養」のフェイズに到達する社会人なんてそれほど多くない気もする。それはそれとして、ビジネスのために教養系コンテンツを見る人がたくさんいた方が収益につながるから、某YouTuberや某インフルエンサーなどはその点には触れず、「ここがこうビジネスに役立ちますよ!」と言って学問の端っこやビジネス書の要所を紹介していくのだろう。知らんけど。
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[1]私の本業は個別指導塾の塾講師であり、新規生徒の入塾面談や長期休みの講習のコマ数提案(=営業活動)をすることもあるが、「ファスト教養」を必要だと感じたことは一度もない。生徒の現状や塾の長所や志望校の難易度や、といった塾としてお伝えするべき知識を相手と共有することで営業ができているし、そこに相手の趣味に合わせる必要性を全く感じない。
思ったこと② ビジネスの場で、人間的な付き合いってできるの?
ビジネスに役立つ教養、という観点で、前職の上司と飯を食いに行った時のことを思い出した。彼は仕事の内容に関しては素晴らしい量と質と(良い意味での)プライドを持っていて、そこは尊敬せざるを得なかったが、雑談の内容が本当につまらなかった。私が大学で文学を専攻していたと話したので、文学の話になり[2]、彼からは好きな古典の話をしていただいた(その時点で彼は決して「教養のない」人間ではないのだ)が、きっとこの人は「文学と言えばこれ」と30年前からアップデートしてないのだろうな、と透けて見えた。私はもう自分の関心領域について真面目に話す気もなく、適当に話を合わせておいたのだが、最後に「好きなことについて語れるようにならなきゃダメだよ」みたいなことを言われて、うんざりした覚えがある。そもそも「ビジネス相手風情に対し、人間的な付き合いなんてできるわけないんだから、適当にやっとこう」と——思っているのは私だけで、大半の人間は心からの付き合いをしているのだろうか? ビジネス相手と心からの付き合いができるほど、人間の心というのは薄っぺらいものなのだろうか? 金を稼ぐための人間関係なんだから、元々仲良く付き合わざるを得ない状況なのであって、そんな縛りがあるなかで、人間的な付き合いなんてできるわけないだろ[3]、と私は思うのだが、そこはどうなんだろう。
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[2]話を合わせていただいたのだから、相手の話のつまらなさを言うのも申し訳ないが、そもそもなんで仕事の相手と仕事と関係ない話をしなければならないんだろう?
[3]当然「クリエイティブ業界」「スタートアップ界隈」など、個々人のナマの心と才能が大きくものをいう場所では、人間的な付き合いとビジネス的な付き合いが両立している例があると思うが、大多数の会社組織ではそうじゃないんじゃない? という話。
思ったこと③ 「ファスト教養」が前時代的価値観と相性が良い、という気づき。
このことは、本書を読むまで全くわからなかったし、考えたこともなかった。確かに、「金を稼ぐことこそ至上」という「ファスト教養」が支え、「ファスト教養」を支えている価値観は、「男は外で稼ぎ、女は家を守る」という封建的な価値観と親和性が高い。さらに「金にならないことは無価値、金を稼げない者は虐げられても仕方がない」という発想[4]は、「弱者は淘汰されねばならない(それが生物学的に正しいのだ)」という優生学的な思想とつながっている。
最近YouTubeで、COTEN RADIOの高杉晋作回を聴いたのだが、パーソナリティの深井さんが「明治維新は武士による武士の打倒であって、(フランス革命のような)身分制の転覆を含む革命ではない」「現代社会は封建制を維持している」というようなことをおっしゃっていた。ファスト教養を擁護するコンテクストの中にも前時代的なものが多分に含まれていて、——「思ったこと①」ともつながってくることだが、——「(ファスト教養を持った)営業マンと話が合ったから、そこに仕事をまわしてやろう」なんて発想は、契約でもなんでもない。やはり日本は中世の価値観に近現代のガワを被せて回しているところが多分にあるんだなあ、と思った。
私が小学生の頃から、他人と話を合わせるためにポケモンをしたり、コロコロを見たり、アニメを見たりする子供がほとんどだった。今でも同じはずだし、「ファスト映画」や「ファスト教養」を取り巻く言説を見ると、子供だけでなく、大人もそうなのだろう。思えばあれも、小学校における、封建的社会に向けた適応の姿だったのかもしれない。知らんけど。
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[4]ここに「新自由主義的な」と形容をつけかけたが、これは紋切り型の表現であって、私は「新自由主義」が何かわからないのでやめておいた。
思ったこと④ 算数を「ハック」しようとする小学生の生徒を見て、「ハック」の気持ち悪さ。
算数の文章題が全然解けない小学5年生の生徒がいる。国語の授業を見ていると、言葉の理解力がないわけではないようだ。算数の問題解説でもこちらの言っていることは理解できているようなのだが、それはそれとして、問題を自分の頭で「ハック」する方法を編み出そうとしてしまうのだ。(ちなみにその子の話し方は、ひろゆきさんにそっくり)
生徒「ここで割り算をすると整数になるから、こっちの問題も割り算をすればいいってことか」
私「いや、答えが整数になるかどうかっていうのは、全然関係がなくて……」
生徒「この分だけ小数点をずらしてみたら、この問題も——」
私「なんで小数をずらすの?」
生徒「そうした方がいいと思って」(なぜか自信満々)
——読者に伝わるのかわからないが、とにかく「解説された通りにやってみて、問題が解ける」という単純なループを繰り返せば算数はできるようになるのに、それをしない。私自身が小学生だった頃も、本当に教わったことが正しいのか確かめるために、掛け算の順序を入れ替えたり、小数の足し算の筆算で小数点の位置をずらしたり、あるいは小数の掛け算の筆算で小数点の位置を揃えたり、——中学に入ってからは、式変形が他のやり方でできないか考えたり、二次方程式の解の公式を新しく作れないかチャレンジしたり、——いろいろやってみたが、結局教わった方法が一番正しく、簡単、という結論になった。それは、言ってみれば「1たす1は2という算数・数学のルールは絶対に揺るがない」という確信を持ったうえで(つまり十分な検算能力を身に着けたうえで)別のやり方を試していたからで、検算能力が不十分なのに先生に言われたやり方を一度も試さず、独自の計算をしたら、正解になど絶対にたどり着けない。
そのことを手取り足取り教えようとする。ただ、言われたとおりにやるだけでいいんだよ、と何度も言うのだが、——ご家庭でどんなYouTubeを見ているのか、尋ねるまでもない——授業で私が教えている時間の何倍もの量、「かしこく出し抜け!」「仕組みを逆手に取れ!」という「ハック」の文脈に乗せられたコンテンツを見ているのだから仕様がない。
並の人間には「仕組みのハック」なんかできない。並の人間にハックできる程度の制度で、現代社会が運営されているはずがない、というのが、私の素朴な確信だ。「ひろゆき」とか「ホリエモン」がそうなのだろうか? 詳しくないのでわからないが、「ハック」の成功者と非成功者の数を見たときに、自分がどちらに属しているのかは火を見るより明らかだろうに、「ファスト教養」を身に着けようとする層も、件の小学生も、自分には「ハック」ができると思ってしまっているんじゃないか。
ハックを称揚する社会というのは、当然、一部の成功者しか認めない社会だ。そしてハックには再現性がない。一度ハックされたシステムは補修され、より強固になるからだ。——単なる不景気だけでなく、そういう社会の雰囲気も、私たちの「息苦しさ」につながっているのかもしれない、と、思った。知らんけど。
英詩読会の姿勢について
「ファスト教養」的な、「ビジネスに役立つ」教養を身に着ける時間の代わりに、「英詩読会」に参加してくれている皆様には、感謝してもしきれない思いだ。しかし、だからといって、「ビジネスに役立つ」ということを標榜する気はまったくありません。
英詩読解は、まったくビジネスに役立たない教養を提供する場でありたいと思います。将来、何かのはずみでアメリカ人と取引をする機会があり、相手がマサチューセッツ州アマースト出身だった場合、ディキンソンに関するやり取りで非常に盛り上がるとは思いますが、それを狙って英詩読会に参加するのであれば、「コスパ」が悪いことこの上ない。
英詩読会は、天才詩人の叡智に触れる機会であり、世界の見方や人生の見方が根本的に変わる可能性を秘めた場だと思います。ほとんどの日本人は、英詩についてほとんど知りません。世界の豊かさ、広さ、極端に言えば、この世の、私たちの人生の、「生きるに値する性」「worth living性」みたいなものを高めるために、ビジネスにまったく役立たない教養は存在するべきだと思います。
どうなんでしょう、「古き良き教養」によって、深く自己存在を耕していけば、たとえ相手の興味のある分野について知識がなくても、芯を食った質問をすることで、相手と仲良くなれるんじゃないでしょうか(と、結局は「現代の作法」として、「ビジネスに役立つ」という文脈に回収してオチを付ける)。知らんけど。