抽象の技巧
こんなわけのわからない気持ちを表現できるようになったとき、きっと初めて心が満たされるのだろう。
創作をはじめて、とりわけ言葉を紡ぐようになって、幾度となく痛感することがある。
それは、抽象的なものほど、描くのが難しいということ。
そりゃあ、言葉は具体性を帯びてはじめて言葉となるわけだから、頭の中に輪郭を持たず浮かんでいる抽象的なものを言葉に直すのは、定義からして困難に決まっている。
それでも、創作を試みていつも痛感するのは、こんな当たり前のことだった。
今日何をしたとか、何処へ行ったとか、何を食べたとか、私が本当に書きたいのはそんなことじゃなくて。
たとえば旅行に行ったとしても、きっと私はそんな記録じゃなくて、そこにいた私の中にあった形のない気持ちを主軸に言葉を紡ごうとしてしまう。
今まで、いろんな創作に手を出そうとしてきた。
実際、エッセイも料理も写真も刺繍も、どれもおもしろそうだと思うし見るのは楽しい。
ただ、より自分が生み出してみたいと思えたのは、小説とか音楽みたいな、より抽象物を詰め込める容量の大きそうなものだった。
小説を書くときだって、いつもメッセージ性を先行した書き方をしていた。
なぜなら、表現したいのはそこだったから。
「こんな展開のミステリーがあったらおもしろそう」「こんな世界観での冒険を描きたい」みたいな始まり方はあまりなくて。
常に「その物語が何を象徴するのか」をまず思い浮かべ、物語を構築していった。
私にとって小説の執筆は、メタファーの活字映画化に近いのだと思う。
そうして創作を唆す心の声に耳を傾けつつも、どうしても言葉や形に直りたがらない彼らの姿勢に、幾度となく頭を悩ませる。
それでも、一切の創作を諦めるよりは遥に幸せなのだけれど。
きっと私は、世の中や人間の大抵のことが抽象的だと考えている。
そういう気がする。
同じ時代、同じ街、同じコミュニティに暮らしていても、眼の持ち主によって世界はおそらく全く異なる。
とあるひとりの人間が善人か悪人かだとか、ポジティブかネガティブかだとか、そんなものは常に環境やら気まぐれやらの間に混濁しながら揺れ動いている、と信じている。
確かなものなんてきっとほとんどなくて、そんな中で感情というものは確かに存在し、私を振り回す。
生活の中で絶えず生まれる感情群は、言葉を介さずに自分の中で暴れまわる。
だからこそ、抽象的な考えやこころを描く力に惚れるのだろうか。
そして、自分にはそんな力もないのに抽象的なものを紡ごうとしては、うまくいかなくてもやもやしているのだろうか。
それでも、表現がひとつ形になったときは、そのクオリティがどうであれ大きな達成感が生まれる。
自分にとって本当の幸せは、抽象を描く技巧の先にある。
これだけが根拠も乏しいのに疑う気の起きないもので、唯一見えている光。
たとえ、空白の海が最期まで満たされないとしても。