入祭唱 "Esto mihi in Deum protectorem" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ26)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 275; GRADUALE NOVUM I p. 243–244.
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更新履歴
小さな変更の場合はいちいち記さない。
2023年1月22日 (日本時間23日)
いくつかの箇所で,解説を少し書き加えたり整理したりした。
2022年2月25日
"confundar" の解釈を再び改めた (詳しくは逐語訳につけた解説を参照)。
"esto" の文法的説明 (逐語訳のところにあるもの) を大幅に簡略化した。
2022年2月6日
「教会の典礼における使用機会」の部が読みづらい上にやや誤った情報を含んでいたため,書き直した。
"firmamentum" の意味についての解説 (「対訳」の部) を書き直した上,全体訳でのこの語の訳語を改めた。
"confundar" の解釈についての説明 (逐語訳のところ) を大幅に書き改めた。
音源を追加した (テキストと全体訳の下)。
2021年1月18日 (日本時間19日)
逐語訳の "esto" に補足説明を加えた。
2019年2月17日
年間第6週のくるタイミングとこの入祭唱の用いられ方についての解説を追記した。
2019年2月11日 (日本時間12日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
旧典礼 (1969年のアドヴェント前まで一般に行われていたローマ典礼で,現在も「特別形式」の典礼として一部で続けられている) において「五旬節 (Quinquagesima) の主日」に割り当てられている。これは旧典礼にのみ設けられている "四旬節への前段階的な時期" に属する主日の一つであり,したがってこの主日は現行「通常形式」のローマ典礼 (現在のローマ・カトリック教会で最も一般的に見られる典礼) にはない。五旬節の主日の3日後が「灰の水曜日」,すなわち四旬節の始まりである。
現行「通常形式」典礼には前述の通り五旬節の主日は存在しないが,それでもなるべく同じくらいの時期に用いることにしようとしたのか,年間第6週に割り当てられている。また,典礼暦関係なしに「難民や追放された人々のためのミサ」で用いることができる入祭唱の一つでもある。
年間第6主日が実際に五旬節の主日のタイミングに重なるかどうかはその年の復活祭の日取りによる (ごく単純に考えると5分の1くらいの確率ではないかと思う) が,たいていは多くともせいぜい3週間のずれですむ。しかし,復活祭がごく早く祝われる (それに伴い,四旬節がごく早く始まる) 年には,四旬節前の「年間」の時期が4週ないし5週で終わり,その結果年間第6週が復活節の直後に回されることがありうる。こうなると,今回の入祭唱は本来とはあまりにも異なる時期に歌われることになる。といっても,実際にこの現象が起きるのは週日 (平日) のみなのであまり目立ちはしない。復活節直後の「年間」の週は日曜日ではなく月曜日に始まるからである (この週の日曜日は聖霊降臨祭,すなわち復活節の最終日)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Esto mihi in Deum protectorem, et in locum refugii, ut salvum me facias: quoniam firmamentum meum, et refugium meum es tu: et propter nomen tuum dux mihi eris, et enutries me.
Ps. In te Domine speravi, non confundar in aeternum: in iustitia tua libera me.
【アンティフォナ】私の守護神に,また避難するための場所になってください,私を救うために。というのも,あなたこそ私の支えであり,私の避難所なのですから。そして御名のゆえに,あなたは私の指導者になってくださるでしょう,私を養い育ててくださるでしょう。
【詩篇唱】あなたに,主よ,私は望みをかけました。私が恥を受けることが永久にありませんように。あなたの正義によって私を自由にしてください。
アンティフォナの出典は詩篇第30 (一般的な聖書では31) 篇第3b–4節であり,詩篇唱にも同じ詩篇が用いられている (ここに掲げられているのは第2節)。
アンティフォナも詩篇唱も,テキストはローマ詩篇書 (Psalterium Romanum) にほぼ一致している (相違点は "iustitia tua" の語順がローマ詩篇書では逆になっていることだけで,この程度の違いは写本次第かもしれない)。
Vulgata=ガリア詩篇書 (Psalterium Gallicanum) は,第2節 (詩篇唱にあたる部分) は同じだが,第3–4節 (アンティフォナにあたる部分) がところどころ異なる。次にアンティフォナに対応する部分の全体を掲げ,異なる部分を太字で示す。
"domum" は「家」,"fortitudo" は「強さ,勇敢さ,勇気」を意味する。"deduces me"「あなたは私を導いてくださるでしょう」は,入祭唱/ローマ詩篇書で「私の指導者になってくださるでしょう」と名詞的に表現しているものを動詞で表現しているだけのことである。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)
【対訳】
【アンティフォナ】
Esto mihi in Deum protectorem, et in locum refugii,
私の守護神に,また避難するための場所になってください,
直訳:なってください,私 (のため) に,守る者である神に,また避難所である場所に,
直訳で「私 (のため) に」(「私にとって」と訳してもよい) とした語 "mihi" は,1人称代名詞の与格である。私のために (私にとって) 守護神になる,とはつまり私「の」守護神になるということ。「所有の与格」の一種と考えてよいと思う。
ut salvum me facias:
私をあなたが救うために。
直訳:救われた状態に私をあなたがするために。
別訳:健康に (……)
「救う」という動詞を用いず,「救われた状態にする」という言い方をしている (ここに限らずよく見られる)。
「(あなたが) する」にあたる動詞 "facias" は接続法をとっているが,これは要求話法・命令だからではなく,単に,目的を表す従属節 (ここでは接続詞 "ut" でそれが始まっている) の中では接続法を使うことになっているからというだけのことである。
"salvum me facias" は,英語の "make A B (AをBにする)" と同じ形であるが,語順は逆になっている。"make" にあたるのが "facias","A" にあたるのが "me","B" にあたるのが "salvum" である。
quoniam firmamentum meum, et refugium meum es tu:
というのも,あなたこそ私の支えであり,私の避難所なのですから。
別訳:というのも,あなたこそ私の強さであり,(……)
"firmamentum" の基本的な意味は「強くする (しっかりさせる) もの,支えるもの」なので,まずは「支え」と訳すのがよいかと思うが,上述の通りVulgata=ガリア詩篇書が "fortitudo (強さ)" という訳語を採っている箇所でもあることだし,「強さ」などと訳してもよいかもしれない。あるいは「私を強くするものであり」とするのも悪くなさそうである。
七十人訳ギリシャ語聖書でこれに当たる語κραταίωμαは「強さ」「支え」のいずれにも訳せるものらしい。ヘブライ語までさかのぼるとこのような抽象的な表現ではなく,「岩」。
et propter nomen tuum dux mihi eris,
そして,あなたのお名前のゆえに,あなたは私の指導者になってくださるでしょう,
これも「所有の与格」で,「私 (のため) に/私にとって指導者になってくださるでしょう」→「私の指導者になってくださるでしょう」。
この文は直説法で書かれたただの未来時制の文だが,2人称の未来時制の動詞は命令のニュアンスを帯びることがあるので,「私の指導者になってください」という願いが実際には含まれていると考えることも可能である。
et enutries me.
そしてあなたは私を養い育ててくださるでしょう。
これも同じで,直説法で書かれたただの未来時制の文だが命令 (願い) のニュアンスを含んでいると考えることも可能である。
【詩篇唱】
In te Domine speravi,
あなたに,主よ,私は望みをかけました。
non confundar in aeternum:
私が恥を受けることが永久にありませんように。
別訳A-1:私がうろたえることが永久にありませんように。
別訳A-2:私が破滅することが永久にありませんように。
別訳B:(……) は永久にないでしょう。
動詞 "confundar" (<confundo, confundere) が問題となる。逐語訳を参照。
in iustitia tua libera me.
あなたの正義によって私を自由にしてください。
別訳:あなたの正義のうちに私を自由にしてください。
教会ラテン語では,前置詞 "in" で手段を表すことがある。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
esto あってください,なってください (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の命令法・能動態・未来時制・2人称・単数の形)
命令法・未来時制 (命令法第2式ともいう) には本来,現在時制 (第1式) とは異なるニュアンスがあるのだが,この動詞sum, esseに関してはそのことは気にしなくてよい。単に,現在時制 (第1式) の形が1世紀くらいから次第に廃れてゆき,常に未来時制 (第2式) の形で代用されるようになっただけだからである。
mihi 私に,私のために,私にとって (与格)
in Deum protectorem 守護者である神に (Deum:神 [対格],protectorem:守護者 [対格])
「なってください」の意味である "esto" を補って,「何に」なってほしいのかを示している。ここで用いられている「in + 対格」という形は基本的には「~ (の中) へ」(方向) ということを表すものであり,その点英語の "into" にあたるといってよい。そのような形がここで用いられていることは,英語でも「AがBになる」を "A turns into B" と言うことを思えば納得がゆく。
et (英:and)
in locum refugii 避難所である場所に (locum:場所 [対格],refugii:避難所の/避難所である [属格])
前の "in Deum protectorem" と並列されている (やはり「in + 対格」の形)。つまりこれも "esto" を補って,「何に」なってほしいのかを示している。
ut (接続詞。英:so that)
さまざまな働きをする語だが,ここでは目的を示す従属節を導く接続詞。
salvum 救われた状態の (に),健康な (に) (形容詞)
me 私を
facias (英:you make) (動詞facio, facereの接続法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
対訳のところで述べた通り,これが接続法なのは単に,目的を示す従属節の中ではそうすることになっているからであり,訳すときには直説法のときと同じようにすればよい。
quoniam というのも~だから
firmamentum meum 私の支え,私を強めるもの (主格) (firmamentum:支え/強めるもの,meum:私の)
et (英:and)
refugium meum 私の避難所,私が避難にあたって頼る者 (主格) (refugium:避難所/避難にあたって頼る者,meum:私の)
es あなたが~である (英:you are [単数]) (動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
tu あなたが
et (英:and)
propter ~のゆえに
nomen tuum あなたの名前 (nomen:名前 [対格],tuum:あなたの)
dux 導く者 (主格)
この文の中で唯一の主格の名詞だが,主語ではなく補語である。主語はすぐ後の動詞 "eris" に含まれている「あなた」である。
mihi 私に,私のために,私にとって (与格)
eris あなたが~であるだろう,あなたが~になるだろう (英:you will be [単数]) (動詞sum, esseの直説法・能動態・未来時制・2人称・単数の形)
et (英:and)
enutries あなたが養い育てるだろう (動詞enutrio, enutrireの直説法・能動態・未来時制・2人称・単数の形)
me 私を
【詩篇唱】
in te あなたに (te:あなた [おそらく奪格])
● 動詞spero, sperare (>speravi) を補って「何に/誰に」希望をかける・期待するのかを示すとき,少なくとも教会ラテン語ではこのように「in + 奪格の名詞」という形が用いられる (古典ラテン語でもそうなのかどうかは知らない)。
手元の教会ラテン語辞典によると対格のこともあるそうだが,今軽くVulgataを調べてみたところ (とりあえず "speravi" で検索をかけた),奪格ばかりが出てきた。ここの "te" は対格でも奪格でもありうる形なのだが,そういうわけでおそらく奪格だろう。
Domine 主よ
speravi 私が希望をかけた,私が期待した (動詞spero, sperareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)
non confundar 私が恥を受けませんように/うろたえることがありませんように/破滅しませんように (nonは否定詞。confundar:動詞confundo, confundereの接続法・受動態・現在時制・1人称・単数の形)
"confundar" は直説法・未来時制でもありうる形である (対訳のところで「別訳B」として示したのはそれに基づくもの)。
しかし,七十人訳ギリシャ語聖書でこれにあたる動詞 (καταισχυνθείην) は希求法 (optative) の形をしており,これは「願望」を表すものである。ヘブライ語にさかのぼっても (אֵבֹ֣ושָׁה)「意志・願望」を表す形 (cohortative) をしている。
ラテン語で話者の願望を表すのは基本的に接続法であるから,ここは直説法・未来時制ではなく接続法・現在時制ととるのが適切だと考えられる。この動詞confundo, confundereは,もともとは「(液体を) 混ぜる」という意味で,そこから「めちゃくちゃにする,無秩序にする」という意味が派生し,さらには「うろたえさせる (整った状態・平静さを奪う)」「破滅させる」といった意味にまでなる。
以上の意味は手元の一般的なラテン語辞典 (STOWASSER) に載っているが,「恥をかかせる」という意味は教会ラテン語辞典 (Sleumer) だけに載っている。といっても,「整った状態・平静さを失う (どぎまぎする)」ことは「恥をかく」ことに通ずるものがあろう。おおもとのヘブライ語 (אֵבֹ֣ושָׁה 語根בושׁ) は「恥をかく」「恥じる」という意味であり (これは能動態でこの意味になる),七十人訳ギリシャ語聖書では「恥をかかせる」(καταισχύνω, καταισχυνειν) の受動態でやはり同じことを言っている (「恥をかかせられる」→「恥をかく」)。
銘形秀則牧師によると,詩篇では「恥」という語がしばしば「信頼」「待望」と一緒に現れるそうだが,まさにここでも直前で「私はあなたに望みをかけました」と言っている。このような文脈での「恥をかく」「恥を受ける」とは,望みをかけたのに失望に終わることを表すのだという。
以上諸々のことを踏まえ,この "non confundar" はまずは「私が恥を受けることになりませんように」と訳したいと思うが,あくまで「私はあなたに望みをかけました,どうか失望に終わらせないでください」という意味をこめてであることを確認しておく。
in aeternum 永久に
in iustitia tua あなたの正義によって,あなたの正義のうちに (iustitia:正義 [奪格],tua:あなたの)
libera 自由の身にしてください,解放してください (動詞libero, liberareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
me 私を