入祭唱 "Populus Sion" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ12)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 18; GRADUALE NOVUM I p. 7.
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更新履歴
2023年2月2日 (日本時間3日)
「教会の典礼における使用機会」および「テキストと全体訳」の部を新設した。
いつもならば,もとになっている聖書テキストとの比較も「テキストと全体訳」の部で行う (それゆえ,普段ならばこの部は「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」というタイトルになっている) のだが,今回は論ずるべきことが特に多く,かつ,全体についてというよりは一文一文についての話なので,これは例外的に「対訳」の部に残すことにした (それに伴い,この部は「対訳,元テキストとの比較」というタイトルにした)。アンティフォナにおいて聖書テキストが大胆に改変されている箇所に関連して,この入祭唱が用いられるミサで伝統的に朗読されてきた聖書箇所についての記述を追加した (「対訳,元テキストとの比較」の部)。
ハイモ関係の部分に含まれていた誤りを取り除き (ハルバーシュタットのハイモではなくオセールのハイモ),また同部分において,不完全な知識による不確かな (誤ってはいなかったが) 記述だった部分 (トリエント公会議による典礼改革より前のアドヴェント第2主日のミサで朗読されていた福音書の箇所について) を文献で確認して確かなものにした。
"ad salvandas gentes" の語学的説明 (逐語訳の部) を短くした。
2021年12月21日
音源 (YouTube動画) を埋め込んだ。
2018年12月5日 (日本時間6日)
投稿
【はじめに】
今回の入祭唱のテキスト自体は特に難解ではないのだが,もとになっていると思われる聖書の言葉 (イザヤ書第30章) と比較すると,大胆な翻案ぶりにびっくりする。この翻案は,単語の置き換えによっても行われているが,恣意的という語をもって形容したくなるような (つまり,イザヤ書のこの部分の著者が読んだら,受けたインタビューを記者の好きなように切り貼りして新聞記事にされた人のように怒りそうな) 言葉のパッチワークによる意味の転換によっても行われている。しかしこのパッチワークの結果立ち現れる新しいヴィジョンは,なんとも美しいものである。というわけで今回はそこの考察がメインで,逐語訳はついでのようなものとなる。
この入祭唱がそういうものであることを私に教えてくれ,今回も参考にしているのは,次の文献である (今回の話に関係するのはpp. 255–259)。
Kohlhaas, Emmanuela, Musik und Sprache im Gregorianischen Gesang, Diss. (Beihefte zum Archiv für Musikwissenschaft 49), Stuttgart 2001.
大学で受けたグレゴリオ聖歌の授業 (4年目,選択科目として) で,あるとき,私を含めて3人いた受講生が第1~第3アドヴェントの入祭唱を一つずつ担当し,この本を参考にして口頭発表することが課せられ,私が担当したのが第2アドヴェント,つまり本稿で扱う入祭唱だったのである。当時私はすでに教会音楽科ではなく音楽理論科の学生であり,グレゴリオ聖歌は単位として認められなかったのだが,あの授業は (この入祭唱のことに限らず) 受けて本当によかったと思う。25年ほどその大学で教えてこられた先生の,最後の年度の授業でもあった。
【教会の典礼における使用機会】
1970年のORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはこれに従っている) ではアドヴェント第2週に割り当てられているが,2002年版ミサ典書ではアドヴェントの週日 (平日のこと) には毎日異なる入祭唱が指定されているため,この入祭唱が用いられるのは主日 (日曜日) のみとなる。
1962年版ミサ典書 (現在,伝統的なミサを,すなわち第2バチカン公会議後の典礼改革が行われる前の形でミサを挙行する際に用いられる典礼書) でも,この入祭唱はアドヴェント第2主日 (とそれに続く週) に割り当てられている。AMSを見る限り,遅くとも9世紀にはもうこうなっていたようである。
【テキストと全体訳】
Populus Sion, ecce Dominus veniet ad salvandas gentes: et auditam faciet Dominus gloriam vocis suae, in laetitia cordis vestri.
Ps. Qui regis Israel, intende: qui deducis velut ovem Joseph.
【アンティフォナ】シオンの民よ,見よ,主が来られるであろう,諸国の民 (異邦人) を救うために。そして主は御自分の声の栄光を聞かれるものになさるであろう,あなたたちの心の喜びによって。
【詩篇唱】イスラエルを治める (牧する) 方よ,御心をお向けください,羊を導くようにヨセフをお導きになる方よ。
今回は例外的に,元テキストとの詳細な比較は対訳の部に譲る。
概略だけ述べておくと,まずアンティフォナは一応イザヤ書第30章第19節と第27–30節に基づいているようだが,聖書のテキストはたいへん自由に利用されており,部分的には真逆の内容に変えられてさえいる。詩篇唱にとられているのは詩篇第79 (ヘブライ語聖書では第80) 篇であり,ここに掲げられているのはその第2節である。
【対訳,元テキストとの比較】
今回は長く複雑なので,少しでも見やすくするため,ラテン語テキストそのものを小見出しにする。
Populus Sion,
シオンの民よ,
たった2語の,しかもよくありそうなフレーズなのでこれだけではなんともいえないが,この入祭唱全体がイザヤ書第30章をもとにしているらしいことからすると,一応同書同章第19節に基づいていると考えることになるのだろう (GRADUALE ROMANUM [1974] / GRADUALE TRIPLEXにもそう書かれている)。
しかしVulgataの同箇所では,呼びかけではなく主語として現れている。Vulgataより前のラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latina) でどうなっているか気になるところだが,まだ確認できていない。七十人訳ギリシャ語聖書ではVulgata同様,呼びかけでなく主語。
"populus" がこの形 (普通なら主格の形) にもかかわらず呼格であることについては,逐語訳の部をお読みいただきたい。
ecce Dominus veniet ad salvandas gentes:
見よ,主が来られるであろう,諸国の民 (異邦人) を救うために。
イザヤ書第30章第27–28節に基づいていると思われるが,前半 "ecce Dominus veniet" は自由な要約であり,後半の "ad salvandas gentes" に至ってはイザヤ書にあるのと真逆のことを言っている。
なお動詞はもともと "venit" と現在時制なのを "veniet" と未来時制に直して「来るだろう (来ることになっている,来るはずだ)」としているのは,いかにもアドヴェントらしい。Vulgataではこの部分はこうなっている。
このように,「主の御名」が怒りに燃えて「諸国の民 (異邦人) を跡形もなく滅ぼ」しに来るという内容であり,入祭唱のテキストとまるで違う。
しかし,そう見えて実は,中心的なメッセージは同じだとも言える。
そもそもなぜ怒りに燃えて諸国の民 (異邦人) を,すなわち「選民」ユダヤ人 (神の民イスラエル) 以外の諸民族を滅ぼしに来るのかというと,ユダヤ人を救うためである。このイザヤ書第30章の背景には,大国アッシリアに侵攻されるユダ王国 (ダヴィデとソロモンの統一イスラエル王国が南北に分裂した後の,南側の王国。預言者イザヤはここで活動した) の危機的状況があるのである。破壊的な言葉が並んでいるけれども,ユダヤ人=神の民の視点に立つならば,あくまで「主 (の御名)」が救いにくることがここには書かれているといえる。
そして新約 (キリスト教) においては民族を問わず「神の民」に入れられるようになり,救いの可能性が全人類に拡大したため,「主」が救いに来るとしたら特定の民族を救ってほかの民族を滅ぼすという形にはならない。それがこの入祭唱において,「諸国の民 (異邦人) を救うために」という,イザヤ書にあるのと正反対の言葉で表現されている。しかし,「主」が自分の民を救いに来るというメッセージ自体は,実はイザヤ書のそれと変わりない。と,私は思う。この入祭唱が歌われるアドヴェント第2主日には,伝統的にローマ人への手紙第15章第4–13節が読まれてきた (第2バチカン公会議後の典礼改革以降,「通常形式」のローマ典礼では,3年に1回 [A年] 第4–9節が読まれるだけになっている) が,ここの "ad salvandas gentes" への大胆な改変と大いに関わりがありそうな内容をもつ箇所である。
et auditam faciet Dominus gloriam vocis suae,
そして主は御自分の声の栄光を聞かれるものになさるであろう,
完了受動分詞 "auditam" の解釈について詳しいことは,逐語訳の部をお読みいただきたい。
イザヤ書第30章第30節に基づいている。原典ではこれに "et terrorem brachii sui ostendet in comminatione furoris, et flamma ignis devorantis
(そして御自分の腕がいかに恐ろしいものであるかを憤怒の脅しと破壊の火炎とによってお示しになるであろう)" という言葉が続いており,「栄光」というのが要するに戦争の勝者の栄光あるいはそれに類するものであることが読み取れる。
ところがこの入祭唱ではこの部分は省かれ,代わりに次の言葉が続く。
in laetitia cordis vestri.
あなたたちの心の喜びによって。
別訳:あなたたちの心の喜びのうちに。
一応イザヤ書第30章第29節に基づいていると言えなくはないが,もとは "laetitia cordis" という語句が別の文脈で出ているだけである。
この第29節全体は次のようになっている。
これは上で引用・考察した第27–28節に続くものであるから,「歌」や「心の喜び」は救われた民 (イザヤ書においてはユダヤ人) のそれである。その意味では,ここから "laetitia cordis (心の喜び)" という語句を取ってきてこの入祭唱に入れること自体はふさわしいことといえるが,斬新なのは,これを本来直接関係ない「主が,自分の声の栄光を聞かれるものにする」という言葉 (第30節) と結びつけてしまっていることである。
「歌」や「笛」が出てくるこの第29節全体を念頭に,「主は御自分の声の栄光を聞かれるものになさるだろう,あなたたちの心の喜びによって」という入祭唱のテキストを考えると,これはつまり,救われた民 (諸国の民=異邦人!) が喜んで歌う歌によって,「主」の「声の栄光」が「聞かれる」ようになる,ということではないだろうか。私がここで前置詞 "in" を「~によって」と訳したいのは主にそういう理由による (そもそも「~のうちに」だと全体としていま一つ意味が通りづらいと思うためでもあるが)。これは教会ラテン語の「in + 奪格」においては普通の用法の一つであり,決して無理な訳ではない。
上の「諸国の民を滅ぼすために」→「諸国の民を救うために」という書き換えほどあからさまな形でではないものの,そういうわけで,ここも旧約聖書の新約的な解釈 (読みかえ) によって,破壊的なイメージが平和なイメージに,特定の民族の喜びが全人類の喜びになっている箇所だと言えると思う。
アンティフォナ (=ここまでの部分) のもう一つの解釈 (オセールのハイモによる)
本稿を逐語訳まで全部書いて発表してから,オセールのハイモ (Haimo Autissiodorensis / Haymon d'Auxerre) という9世紀に重要な著作を残した人によるイザヤ書注解のうち,上の "et auditam faciet Dominus gloriam vocis suae" に関する部分 (Sp. 872) を少し読んだ (なお,彼の著作は長らくハルバーシュタットのハイモ [Haimo Halberstatensis / Haymo von Halberstadt] によるものとされていた。リンク先 [Migne編Patrologia Latina] でもそのような扱いになっている)。
Wikipedia英語版によると,ハイモは独創的な人ではなく教父の書いた通りのことを書いたということなので (なおこのWikipedia項目はハルバーシュタットのハイモについてのものだが,ここで問題なのは著作の内容なので関係ない),グレゴリオ聖歌の背景を考える上で参考になるだろうし,事実,上掲のEmmanuela Kohlhaasの本でも,第27節についての部分が言及・引用されている。
ハイモによると,「主が御自分の声の栄光を聞かれるものとなさる」のは終末のときであり,この「主」とは父なる神のことであり,父なる神の「声」とはイエス・キリストのことである。
そういえば,アドヴェントというのは終末 (イエス・キリストの再臨) を思う性格をも持った季節である。特にこの入祭唱が歌われるアドヴェント第2主日のミサには,トリエント公会議 (16世紀) による典礼改革より前にはルカによる福音書第21章第25–33節 (「小黙示録」と呼ばれる部分の一部) が割り当てられていたため (参考:1474年版ミサ典書,丸山p. 104),特にそのような性格が顕著だったといえる。
とにかく,「声」がイエス・キリストのことだ,というのは,これがアドヴェントの入祭唱,つまり神が人間になってわたしたちのところに現れることを待ち望む季節の入祭唱であることを考えると興味深い。父なる神の「声」であるイエス・キリストが「聞かれる」ようにされる。「聞かれる」とは,聴覚的に知覚されるということである。人間の感覚でとらえられなかった神が,とらえられる形になる。これは「降誕」そのものである。
さらに,イエス・キリストといえばヨハネによる福音書の冒頭で「言葉」と呼ばれている存在であることも考え合わせると,味わい深いと思う。言葉もまた「聞かれる」ものだからである。そして,クリスマスの「日中のミサ」(降誕祭第3ミサ) では,まさにこのヨハネ福音書冒頭が朗読されるのである。「言葉は肉となって,私たちの間に住まわれた」(第1章第14節)。
上に書いた私の解釈 (救われた民の喜びの歌によって,主の声の栄光が聞かれるものとなる) も捨てたくないが,教父の伝統に立つ解釈は無視するわけにゆかないし,それに少なくとも今回のこれは説得力があると思う。
というわけで実際に「声=イエス・キリスト」という考えに基づいて今回の入祭唱を訳すならば,アンティフォナの最後の部分は「あなたたちの心の喜びによって (主は御自分の声の栄光を聞かれるものになさるであろう)」ではなく普通に「あなたたちの心の喜びのうちに」とすることも大いに考えられるだろう。とはいえ,私たちの喜びの歌において改めてイエス・キリストが地上に生まれるのだ,さらにいうと喜びの歌を歌って聖められる私たち自身がキリストの体となり,キリストをこの世に顕すのだ,という方向で考えるならば,やはり「~によって」とすることも可能だろう。
Qui regis Israel, intende:
イスラエルを治める (牧する) 方よ,御心をお向けください,
詩篇第79 (ヘブライ語聖書では第80) 篇第2節。この部分はローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
「イスラエル」は神の民の名であり,ここでもその意味だが,もとはといえば族長ヤコブ (アブラハムの孫,イサクの子) の別名である (創世記第32章第29節を参照)。これを知らないと,次の部分を理解するのが困難になる。
qui deducis velut ovem Joseph.
羊を導くようにヨセフをお導きになる方よ。
直訳:羊 (を) のようにヨセフをお導きになる方よ。
詩篇第79 (ヘブライ語聖書では第80) 篇第2節。この部分はローマ詩篇書にだけ一致している。Vulgata=ガリア詩篇書では,"velut (~のように)" が "tamquam" に (意味は同じ),"ovem (羊を)" (単数形) が "oves" (複数形) になっている。
「ヨセフ」は族長ヤコブ (イスラエル) の12人の子のうち11人めで,彼が果たした特別な役割 (創世記第37–50章を参照) からして,ここではイスラエル十二部族の代表として名が出ていると考えられる。つまり「イスラエル」の言い換えとして,すなわちここでは結局神の民を指す語として用いられていることになる。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
populus Sion シオンの民よ (populus:民よ,Sion:シオンの)
"Sion" は格変化しない (ヘブライ語由来の語ではよくあること)。
"populus" は第2変化名詞であり,第2変化において "-us" で終わる形はふつう単数・主格であって呼格ではない。呼格 (単数) なら "-e" が通常であり,実際この "populus" の呼格も "popule" という形が本来である。今Google検索をかけて出てきた (Google Booksで少し閲覧することができた) あるラテン語文法の本 (Ferdinand Dümmler, Lateinische Grammatik, 1824,39ページ) によると,「"populus" については "populus" という形の呼格も見られるが,"popule" という形を用いるほうが確実である」とのことである。というわけで,ここの "populus" は (文脈上どう見ても呼びかけなので) 例外的な形の呼格である。
なお "populus" は聖書においては,後に出る "gentes" (「異邦人」を意味しうる) の対概念として「神の民」の意味で用いられることがある語だそうである。
ecce 見よ,ほら,ほらそこに
「見よ」といっても動詞の命令形ではない。辞書ではたいてい副詞,たまに間投詞に分類されている。
Dominus 主が
veniet 来るであろう (動詞venio, venireの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
ad salvandas gentes 諸国の民を/諸民族を/異邦人を救うために (ad:~を目的として,~のために,salvandas:救われるべき [動詞salvo, salvareをもとにした動形容詞,女性・複数・対格],gentes:諸国の民/諸民族/[神の民イスラエルの対概念としての] 異邦人 [女性・複数・対格])
「ad + 動形容詞とそれがかかる名詞の対格」は,目的を示す構文の一つである。動形容詞は「~されるべき」という意味をもつので,"ad salvandas gentes" を直訳すれば「救われるべき諸国の民 (諸民族,異邦人) のために」だが,意味するところは結局上記の通りとなる。
et (英:and)
auditam 聞かれた (動詞audio, audireをもとにした完了受動分詞,女性・単数・対格)
これは完了受動分詞であり,あくまで「聞かれた」という意味なので (訳語はともかく,とにかく文全体の時制より一つ前のことを表すので),厳密にはこのあたり全体は「主は御自分の声の栄光を聞かれた状態になさるであろう」,つまりすでに人々がそれを聞いた状態を作るであろう,ということを意味するはずである。しかし,ここの文全体が未来時制であり,現在からみればまだ「聞かれ」ていないものが「聞かれる」状態にされることには変わりないので,対訳ではあまりこだわらず,日本語としての分かりやすさを優先して「聞かれるものとなさるであろう」とした。
古典ラテン語であれば上記の通りなのだが,古代末期のラテン語では,完了受動分詞が事実上ただの受動分詞として用いられていることがあるらしい (参考:STOWASSER,p. XXIV)。ここがまさにそれなのであれば,何も複雑なことは考えず,文字通り「主は……聞かれるものとなさるであろう」ということだと考えればよいことになる。
faciet (~という状態に) するであろう (英:will make) (動詞facio, facereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
Dominus 主が
gloriam 栄光を
vocis suae 自身の声の (vocis:声の,suae:自身の)
"et" からここまでを英語で言えば,"the Lord will make the glory of his voice to be heard" となる (ほぼDRAそのまま,助動詞だけ今の英語に合わせて "shall" から "will" に替えた)。
in laetitia 喜びによって,喜びのうちに (laetitia:喜び [奪格])
「対訳,元テキストとの比較」の部でも述べた通り,教会ラテン語においては「in + 奪格」で手段を表すことがある。
cordis vestri あなたたちの心の (cordis:心の,vestri:あなたたちの)
直前の "laetitia" にかかる。
【詩篇唱】
qui (英:you who) (関係代名詞,男性・単数・主格)
「~である人」「~する人」ということを言いたいとき,英語であればまずはthatなりthoseなりの先行詞を置いてから関係代名詞 (who, whom, that) を置くが,ラテン語では先行詞を省略することができる (関係代名詞が先行詞をも含んでしまうことができる,ともいえる)。そして,ここではこの関係詞節全体でもって「~する方よ」と呼びかけている。呼びかける対象はいま直接話しかけている相手,すなわち2人称の相手に決まっており,それがここでは先行詞にあたるので,英語でいえば "you who" となるわけである。こういうわけで,次の動詞も2人称の形をとっている。
regis (あなたが) 支配する,方向づける,牧する (動詞rego, regereの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
Israel イスラエルを
先ほどの "Sion" 同様,格変化しない。
intende 注意を向けてください (動詞intendo, intendereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
「何に」注意を向けるのかまで言わないと,この動詞は本来意味を成さないと思うのだが,それは書かれていない。そして手元の複数の辞書を見る限り,この動詞に自動詞の用法 (目的語を必要としない用法) はない。したがって,「私たちに」あるいは「イスラエルに」という目的語が暗黙のうちに含意されているのだなと思いつつこう訳しておくしかない。
qui (同上)
deducis (あなたが) 導く,連れ出す (動詞deduco, deducereの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
velut ovem 羊 (を) のように (velut:~のように,ovem:羊を [単数形])
Ioseph ヨセフを
格変化しない。
ゴシック体だと同じに見えてしまうので断っておくと,最初の字は大文字のiであり,小文字のLではない。