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アンティフォナ "O Sapientia" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ62)

 Antiphonale Monasticum I (2005), pp. 47–48.
 Antiphonale Monasticum (1934), p. 208.
 Liber Usualis, p. 340.
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  「オー・アンティフォナ (O-Antiphonae)」(日本のカトリック中央協議会の訳では「おお交唱」) の一つである。これはアドヴェント (待降節) 最後の特別な期間において,晩課 (Vesperae,およそ17~18時ごろから行われる聖務日課) の中でマニフィカト用アンティフォナとして歌われるもので, 12月17日から23日までの各日のために1つずつ,全部で7つある。
 今回扱う "O Sapientia" は12月17日に歌われる。

  「オー・アンティフォナ」全般についての解説,各アンティフォナの全訳と関連聖書箇所はカトリック中央協議会のサイトにある。ここでは一番基本的なことだけ書いておくと,さまざまな言葉 (今回なら "Sapientia [智恵]") で呼ばれ, 「来てください」と願われているのは,イエス・キリストである
 


更新履歴

 些細な変更は記録しない。

2024年12月8日

  •  訳語を少し改めた。「私たち」→「私ども」。

  •  対訳の部と逐語訳の部とを統合した。

2022年12月16日 (日本時間17日)

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【テキストと全体訳】

O Sapientia, quae ex ore Altissimi prodisti, attingens a fine usque ad finem fortiter, suaviter disponensque omnia: veni ad docendum nos viam prudentiae.
おお智恵よ,至高者の口から出,力強く果てから果てまで及び,優美にすべてを秩序づけている (智恵よ)。来てください,私どもに賢さの道を教えるために。


【対訳・逐語訳】

O Sapientia,

おお智恵よ,

o おお (間投詞)
Sapientia 智恵よ,上智よ,叡智よ

  •  ただの智恵すなわち人間の智恵のことではなく,神のそれのことである。次の関係詞節がそれを明確にする。

quae ex ore Altissimi prodisti,

至高者の口から出てきた (智恵よ),

quae (関係代名詞,女性・単数・主格) ……直前の "Sapientia" を受ける。
ex ~から (英:out of, from)
ore 口 (奪格)
Altissimi 至高者の ……直前の "ore" にかかる。
prodisti (あなたが) 出てきた,現れた (動詞 [不規則活用] prodeo, prodireの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形) ……ここの関係詞節の述語動詞である。この関係詞節が「智恵よ」という語に,つまり呼びかけの対象にかかっているため,3人称ではなく2人称になっている (この関係詞節は単なる「智恵」を修飾しているのではなく,今まさに話しかけている相手としての「智恵」すなわち「あなた」を修飾しているということ)。

  •  直前の "Sapientia" を修飾する関係詞節。

attingens a fine usque ad finem fortiter, suaviter disponensque omnia:

訳1:力強く果てから果てまで及び,優美にすべてを秩序づけている (智恵よ),
訳2:力強く優美にそしてすべてを秩序づけつつ,果てから果てまで及んでいる (智恵よ),

attingens 触れる,到達する (動詞attingo, attingereをもとにした現在能動分詞,女性・単数・主格)
……前の "Sapientia" にかかる。
……もとの (知恵の書第8章第1節) ギリシャ語διατείνει (これは分詞ではなく定動詞) は「広がっている,及んでいる」。
a … usque … ~から~まで
fine/finem 果て (それぞれ奪格,対格)
fortiter 強く,力強く,勇敢に ……2つ後の "disponens" にかかる。
suaviter 甘く,心地よく,優美に ……直後の "disponens" にかかる。disponens 秩序づける,配置する (動詞dispono, disponereをもとにした現在能動分詞,女性・単数・主格) ……もとの (知恵の書第8章第1節) ギリシャ語διοικεῖ (これも分詞ではなく定動詞) は「司る」「支配する」。
-que (英:and) ……注意:"disponensque" は "and disponens" であって "disponens and" ではない。
omnia すべてのものを (名詞化した形容詞,中性・複数・対格) ……すぐ前の "disponens" の目的語。「すべてのものを秩序づけて」。

  •  これも "Sapientia" を修飾しているが,今度は関係詞節でなく分詞句。

  •  知恵の書 (カトリック教会では第二正典に入っている文書で,日本の新共同訳聖書や聖書協会共同訳聖書では「旧約聖書続編」の部に収められている) 第8章第1節を,文法的にはともかく内容的にはほぼそのまま用いている。

  •  アンティフォナのこの部分は,"-que" がこの位置にあることから考えると,"fortiter (力強く)" と "suaviter (優美に)" と "disponens(que) omnia (すべてを秩序づけつつ)"  とが並列され,これら3つがすべて "attingens ([果てから果てまで] 及んでいる)" にかかっている,とまずは解釈することになるだろう (訳2)。

  •  ところが,もとの (ギリシャ語聖書の) 知恵の書第8章第1節を見ると,並列されているのは (ラテン語でいうところの) "attingens (及ぶ)" と "disponens (秩序づける)" とであり,前者に "fortiter (力強く)" が,後者に "suaviter (優美に)" がかかる,という形になっている
     もしも "-que" が "disponens" ではなく "suaviter" についていたら,アンティフォナのこの箇所も同様に解釈する上で何の障害もなかった (この場合,要するに "fortiter" と "suaviter" との間に "et" が入るのと同じになるのである)。実際,gregorien.infoに掲載されているテキストでは "suaviterque" となっている。しかし "antiphonale synopticum" で諸写本におけるテキストを見るとどれも "suaviter" ではなく "disponens" に "-que" がついているので,こちらを採らざるを得ないだろう。

  •  というわけで,もとの聖書と同じように解釈することは諦めざるを得ないかと思えるのだが,ただ,これは中世のラテン語である。いろいろと原則から外れているということは考えられるだろう。もしかすると, "suaviter disponens" をひとかたまりと見て,このひとかたまりの終わりに "-que" をつけることで前の要素と並列しようとしたのかもしれない。
     実際,現代の聖歌書はこの解釈を採っているように思われる。Liber UsualisでもAntiphonale Monasticum I (2005) でも,"fortiter" と "suaviter" との間に区分線を置いているからである。

  •  総合的に判断して,私個人はこの解釈を,つまり結局もとのギリシャ語聖書と同じ区切り方を採りたい (訳1)。

veni ad docendum nos viam prudentiae.

来てください,私どもに賢さの道を教えるために。

veni 来てください (動詞venio, venireの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
ad docendum 教えるために,教授するために,授業するために (docendum:動詞doceo, docereをもとにした動名詞,単数・対格)
nos われわれを/に (対格) ……この形 (対格) 自体は「われわれ」だが,今回は日本語の都合上「われわれ」と訳すことになるだろう。
viam 道を
prudentiae 先見の,学知の,洞察の,思慮深さの,賢さの ……直前の "viam" にかかる。

 

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