入祭唱 "Domine, in tua misericordia speravi" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ27)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 278-279; GRADUALE NOVUM I p. 248.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
更新履歴
些細な修正は記録しない。
2022年2月23日 (日本時間24日)
「教会の典礼における使用機会」の部を書き直した。
「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部の終わりのほう ("-vit/-bit" の問題について) をいくらか簡潔にまとめ直した。含まれている情報には変更ない。
2021年5月16日 (日本時間17日)
動詞exsulto, exsultareを「喜んで跳び上がる」と訳していたのを,もっと一般的な訳語である「喜び躍る」に替えるか両方並記するかにした (もともと「喜び躍る」という語を採用していなかったのは,私が「躍る」と「踊る」とを混同しており,「喜び踊る」だとexsultareの意味が十分に出ないと考えたためであった)。
2019年2月20日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
(この部に現れる「年間」「四旬節」「主日」などの語についての説明はこちら)
現行「通常形式」のローマ典礼 (現在のカトリック教会で最も広く見られる典礼) では,年間第7週に割り当てられている。
年間第7週は,復活祭の日取り次第で,四旬節より前にくる (2月。週の終わりが3月になることもある) ことも,復活節より後にくる (5月。土曜日だけ6月になることもある) こともある。後者の場合,この入祭唱が歌われるのは週日 (平日) のみであり,主日 (日曜日) に歌われることはない。この週が復活節の後にくるとしたら,それは必ず聖霊降臨祭の週またはその次の週にあたることになり,そのいずれであっても主日だけ特別なテーマを持っており (聖霊降臨の主日あるいは三位一体の主日),それに伴い主日には当然別の歌が歌われるからである (さらに言うと,聖霊降臨の主日はそもそも「年間」ではなく復活節に属する [復活節の最終日である] ので,「年間」に入るの自体が日曜日ではなく月曜日である)。
この入祭唱がもともと用いられていたのは「聖霊降臨祭後第1主日」であり,その名の通り聖霊降臨祭の1週間後の日曜日に歌われていた。ところがその後この日に「三位一体の主日」が祝われるようになったため,この入祭唱は主日には歌われなくなり,それに続く週日 (平日) 専用となった。「三位一体の主日」はある地域で10世紀に初めて祝われ,それがだんだん広がってゆき,ついに1334年にローマ典礼の全教会の暦に取り入れられたものである (参考:Volksmissale, p. 566 T)。以来20世紀後半まで600年間以上も週日専用だったわけで (そして上述の通り今でもそうなることがあるわけで),その意味でこれは比較的影の薄い聖歌だといえるかもしれない。
ともかく,この入祭唱の本来の時期は四旬節・復活節の前ではなく後だということは知っておいて損はないだろう。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Domine, in tua misericordia speravi: exsultavit cor meum in salutari tuo: cantabo Domino, qui bona tribuit mihi.
Ps. Usquequo Domine oblivisceris me in finem? usquequo avertis faciem tuam a me?
【アンティフォナ】主よ,あなたのあわれみに私は望みをかけました。私の心はあなたの救いに喜び躍りました。主に向かって私は歌おう,私によいものを下さった (主に)。
【詩篇唱】いつまで,主よ,私をすっかり忘れていらっしゃるのですか。いつまで御顔を私からそむけていらっしゃるのですか。
アンティフォナの出典は詩篇第12 (一般的な聖書では13) 篇第6節 (途中まで) であり,詩篇唱にも同じ詩篇が用いられている (ここに掲げられているのは第1節)。アンティフォナのテキストは,ローマ詩篇書Psalterium RomanumともVulgata=ガリア詩篇書Psalterium Gallicanumとも少しずつ異なっている (厳密にいうと詩篇唱も完全一致ではないが,無視してよい程度の違いである。2つめの "usquequo" がローマ詩篇書で "quousque" となっているということだけ。意味はほぼ同じ)。(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)
アンティフォナにあたる部分の比較表を次に掲げる。
第1文では,両詩篇では最初にある "ego autem (しかし私は)" (ego:私が,autem:しかし) という語句が入祭唱では削られ (「私」という主語は動詞の活用で示されているので,この変更によって主語が変わるわけではない),その代わり "Domine (主よ)" という呼びかけが追加されている。動詞はローマ詩篇書のみ未来時制 ("sperabo") になっており,Vulgata=ガリア詩篇書と入祭唱では完了時制 ("speravi") である。七十人訳ギリシャ語聖書では直説法・アオリストで,これは過去 (の一回のできごと) を表す形であるから,ここからすると完了時制に訳すほうが近いといえる。
個人的に何より興味深いのは,2つの詩篇書のいずれでも "ex(s)ultabit" (未来時制) となっている語が,この入祭唱では "exsultavit" (完了時制) となっていることである。聖歌書によっては "-bit" になっているかもしれないと思い (というのも,ほかの聖歌で実際に "-bit" と "-vit" とが置き換わっている例を見たことがあるので),調べてみた。
その結果,10世紀以降の聖歌書 (上にリンクを張ったgregorien.info内のページからアクセスできたもの) では例外なく "-vit" (完了時制) となっていた。また,AMSにまとめられている(8~)9世紀の6聖歌書のうちこの入祭唱を含むものは4つあり,そのうち「コルビ (Corbie) のアンティフォナーレ (グラドゥアーレ)※」だけは "-bit" としているものの,残り3つはいずれも "-vit" であった。
【対訳】
【アンティフォナ】
Domine, in tua misericordia speravi:
主よ,あなたのあわれみに私は望みをかけました。
exsultavit cor meum in salutari tuo:
私の心はあなたの救いゆえに喜び躍りました。
別訳1:私の心はあなたの救いについて喜び躍りました。
別訳2:私の心はあなたの救いのうちに喜び躍りました。
前置詞 "in" を素直に訳せば別訳2のようになるだろうが,「in + 奪格」は原因・理由を示すときにも用いられることがあり,そう解釈すれば上の2つの訳のようになる。全体訳では,「~ゆえに」という意味にも「~について」という意味にもとれるよう,「救いに」という単純な訳にしておいた。
cantabo Domino, qui bona tribuit mihi.
主に向かって私は歌おう,私によいものを下さった (主に)。
自然な日本語の語順に直したもの:私によいものを下さった主に向かって私は歌おう。
その別訳:私によいものを下さる主に向かって私は歌おう。
動詞 "tribuit" が現在時制とも完了時制ともとれる。
【詩篇唱】
Usquequo Domine oblivisceris me in finem?
いつまで,主よ,私をすっかり忘れていらっしゃるのですか。
別訳1 (句読の変更を伴う):いつまで,主よ,私を忘れていらっしゃるのですか。永久にですか。
別訳2 (句読の変更を伴う):いつまでですか,主よ。あなたは私を永久に忘れていらっしゃるのですか。
句読点や疑問符は後で補われたものなので,この一文は "Usquequo Domine oblivisceris me? In finem?" あるいは "Usquequo Domine? Oblivisceris me in finem?" と読むことも可能であり,2つの別訳はそれによったものである。"in finem" は熟語としては「完全に」「すっかり」という意味にも「永久に」という意味にもなる (どちらも,手元の2つの紙の羅独辞典のうちでは,教会ラテン語辞典にのみ載っている)。
なお,ヘブライ語原典から直接訳している普通の聖書をいくつか見たところ,やはり上の3通りの訳いずれもが見られた。
usquequo avertis faciem tuam a me?
いつまで御顔を私からそむけていらっしゃるのですか。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
Domine 主よ
in tua misericordia あなたのあわれみに,あなたの慈悲に (tua:あなたの,misericordia:あわれみ/慈悲 [奪格])
次の "speravi" を補って,「何に」望みをかけたのかを示す。前回の詩篇唱にも出てきた形。
speravi 私が希望をかけた,私が期待した (動詞spero, sperareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)
exsultavit 跳び上がった,喜んだ (動詞exsulto, exsultareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
主語は直後の "cor"。
cor meum 私の心が (cor:心が,meum:私の)
in salutari tuo あなたの救いのゆえに,あなたの救いについて,あなたの救いのうちに (salutari:救い [奪格],tuo:あなたの)
この "in" については対訳のところで解説した。
cantabo 私が歌おう (動詞canto, cantareの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
Domino 主に
qui (関係代名詞,男性・主格・単数)
直前の "Domino" を受ける。
bona よいもの (複数) を
形容詞 "bonus/-a/-um" の中性・複数・対格形を名詞化して用いているもの。
tribuit 与える,授ける / 与えた,授けた (動詞tribuo, tribuereの直説法・能動態・現在時制または完了時制・3人称・単数の形)
直接目的語は直前の "bona",間接目的語は直後の "mihi"。
mihi 私に
【詩篇唱】
usquequo いつまでか,いつまで~か
Domine 主よ
oblivisceris あなたが忘れ (てい) る (動詞obliviscor, oblivisciの直説法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・単数の形)
me 私を
in finem すっかり,完全に / 永久に
文字通りには「果てまで」あるいは「終わりまで」(finem:限界,果て,終わり [対格])
対訳のところで説明した通り,「すっかり,完全に」ととるか「永久に」ととるかは,"usquequo" からここまでをどう区切るか (あるいは区切らないか) による。
usquequo いつまで~か
avertis あなたがそむけ (てい) る (動詞averto, avertereの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
faciem tuam あなたの顔を (faciem:顔を,tuam:あなたの)
a me 私から (me:私 [奪格])