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FIREという愚行②
おさらい
FIREを社会全体で達成することは不可能で、
そこから、労働の真の目的が「お金」ではなく「生産物(財やサービス)」であることが見えてきました。
もっとも、お金が発明される以前から労働(マンモスを狩ったり、作物を育てたり…)はありましたから、成立順からして、そもそも労働の本来の目的がお金であった、なんてことはあり得ません。
労働も「支え合い」
経済にとって、また私たち人間にとって、大切なのはお金ではなく、生産物の方です。
共同体の経済は、各人が労働し、生産物を提供し合って、成り立っているのです。
手元に貨幣をたくさん集めることより、必要な生産物を提供することの方が、人類にとって価値ある行為です。
(生産物を提供する際には、その結果として手元に貨幣が集まってきますが。)
私たちはお金で何かを買ったとき、「自分の力で手に入れた」ように錯覚しますが、実際には誰かの労働と生産に頼っているに他なりません。
私など、身につけている物から食べている物、直接・間接に利用している電気や石油エネルギーにいたるまで、全て他人が労働によって提供してくれた物やサービスに依存して生活しています。
一方で私は、ささやかながら「公教育」というサービスを生産物として社会に提供することで、経済の「支え合い」に参加しています。
つまるところFIREとは、経済上の支え合いの、「支える側」からだけ離脱して、一方的に「支えてもらう側」でいようという生存戦略なのです。
公教育とFIRE
FIREは、金融の仕組みが生んだ一種の「バグ」のようなもので、それを目指したり達成したりする個人を批判するつもりはありません。
(それもそのはず。私自身、2019年頃にはせっせと資産運用に励んでいたのです。今更、人様のことになど口出しできません。)
しかし、そこには共同体を維持しようとする「公共性」や「市民性」の視点が欠けてしまっていることは否めません。
ですから、公教育の視点からは、手放しにFIREを歓迎することはできないのです。
私たち教師は、日々の教育のなかで、またキャリア教育や勤労教育といった機会を捉えて、子どもたちの「労働」への理解を育んでいきたいものです。
きっと、「勤労の義務」が憲法にまで規定されている意味が、子どもたちにも伝わると思うのです。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。