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「変化が加速する時代」の嘘②

おさらい

教員向け研修の場で、「現在は変化の加速する予測困難な時代だ。適応せよ。」と聞かされた私。

現在は本当に「変化の時代」なのかと疑問を抱き、

公教育の視点からも、あとに述べる大きな違和感を覚えました。

そして「変化は加速しているのか」を検討するうえで、興味深いレポートを発見したのでした。


レポートの解釈


くだんのレポートの調査結果について、同レポート内では、以下のような解釈が示されています。

我々の生活に大きな変化をもたらしているデジタル機器やネットの普及も、そのペースは2010年頃までがピークで、足許の変化は緩やかになった。総じて、我々の生活が変化するスピードは、2010年以降緩やかになっている

三井住友信託銀行 調査月報
2023 年 3 月号 「時論」
より

このあと同レポートは、必ずしも「変化は激しくない」と断定的に結論付けるわけではないのですが、

「変化が加速する時代」という社会認識について懐疑的になるには十分な根拠ではないでしょうか。


主権者は誰か

ここまで、そもそも変化は加速していないのではないか、という疑問について検討してきました。

しかし、この疑問点もさることながら、私の抱いた違和感の本質的な部分は、「予測困難」の箇所にあり、

なぜ、私たちを予測困難な変化に「適応」させようとするのか?という点なのです。

民主制を採る我が国の主権者は、国民である「私たち」です。

主体的に国家の行方を決定付ける「私たち」が、なぜ「予測困難」な時代の変化を受け入れる側に立ち、消極的に「適応」することを迫られるのでしょうか?

そこが最も腑に落ちない点なのです。


ビジネスの理論

ここには、「ビジネスの理論」を誤った形で公教育の現場に援用してしまった可能性があるのではないでしょうか。

ビジネスであれば、「時代の変化」(大づかみに、「顧客のニーズの変化」と換言できるでしょうか)を鋭敏に察知し、

それに適応した生産活動を行う必要があることには異論ありません。

ところが、公教育が育てる「市民性」とは、必ずしもそうした資質ではないはずです。


私たちは変化の「作り手」である

国家の主権者としての私たちは、変化の「受け手」ではなく、「作り手」です。

ですから、時代の変化に合わせて振る舞いを変えるばかりではなく、

むしろ私たちが「ふさわしい」と考える在り方に沿って、社会構造の側を「適合」させようと働きかけるべきではないのでしょうか。

今にして思えば、「変化に適応せよ」というメッセージに私が抱いた違和感の正体とは、

(公教育としての文脈上は)主権者としての自覚や主体性を見失っているのではないか、というものだったのです。


公教育を担う私たち教師は、絶えず社会を「更新」し続けていこうとする、そんな主体性と自覚を備えた市民性をこそ、育まなくてはならないのではないでしょうか。


本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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