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親たちの戦争

※写真は長野県内の旅館。
ここも戦災はなかったらしい。
手榴弾消化器が残っている。

亡き両親は長野県出身だった。
第二次世界大戦で唯一空襲に遭わなかった県である。
他の県はことごとくアメリカの空襲の被害を受けている。
(昔ちょいと調べた)

逆に考えればアメリカ軍は、日本全国津々浦々、長野以外は余す場所なく爆弾を落として回ったんだなと感心する。

人殺しに勤勉なこった。
いや、それが戦争というものか。

そりゃあ、長野県は軍事施設なんかないもの。
疎開先になるような山国だもの。

爆弾も落とされないさ。

というわけで無事に残った長野県なのだが。

父の故郷、飯田市は終戦後に戦争とは無関係の大火で街が燃え尽きた。
「飯田の大火」で検索すると未だに出て来る。

祖父はサイダー工場をやっていて、そこそこ資産もあったらしい。
けれど全て灰燼に帰した。

諸悪の根源は蔵である。

火事でも蔵は燃えないとの言い伝えがあった。
(てか今も信じてる人がいるらしい。お蔵は燃えますよ!)

祖父や祖母は現金、有価証券だの貴重品を蔵の中に入れて逃げたそうだ。
まんまと灰燼に帰した。

一文無し……まるで落語の「鼠穴」
いや鼠穴がなくとも、お蔵は燃えるんだよ。

これは蔵ではない
美ヶ原温泉の白糸の滝ふれあい山辺館

当時、父は北海道の医大に行っていた。だから兵隊に召集されなかった。

(一橋大の伯父が兵隊に行ったのは、学徒出陣だったのか志願だったのか。
 その辺は知らない。
 大火当時戦地から引き揚げていたのかどうかも)

飯田から札幌に電報が届いたそうだ。

「イエクラマルヤケ コズトモヨイ」

家蔵丸焼け 来ずとも良い

その文言は何度も聞かされた。

あ、いや。
これは戦後の話だった。

これは秋田のバター餅

戦争中、北大生の父は配給で(アルバイトの手当だったか?)バターの塊を貰ったそうだ。
それが溶けるので舐めながら帰ったと。

悲惨なのか裕福なのかよくわからない戦時中の話である。

一方、母は戦時中は女学生だった。

高等女学校で師範の資格を取ったとか取らないとか。

(繰り上げ卒業とかいう言葉も聞いた記憶がある。
 この言葉は、田辺聖子さんや佐藤愛子さんも書いていた。
 母の上の世代がその憂き目に遭ったらしい)

女学生だった母は工場労働に駆り出されたらしい。
女子挺身隊ってやつ?

詳しい話は聞いていない。
ただ、写真は残っていた。

運動場でモンペ姿でハチマキ巻いて竹槍持って立っている姿。

マジでやったんだよねぇ。
竹槍で鬼畜米英を撃ちてし止まん。
B29何するものぞ……みたいな?
竹槍訓練。

もっともその後、ベトナム戦争でアメリカ軍がベトコンが竹槍で作った罠に落ちて云々……

てな話を聞けば、竹槍も武器といえば武器なんだなあと思ったわけで。

ベトナム戦争といえば、私が子供の頃はアサヒグラフに当り前のように残酷極まりない写真が載っていた。

米兵が笑顔でベトナム人の上半身を肩に担いで、カメラ目線で笑っている写真を見たこともある。

もちろん遺体に下半身は付いていない。
米兵はあくまでも得意気な笑顔。

(狩猟で狩った鹿の上半身だけ切り落として披露してるみたいな?)

有名なのは、やはり笑いながら横に立っているベトナム人の頭部を拳銃で撃ち抜く瞬間をとらえた写真。

多分今でも検索すれば出て来るだろう。

ご興味のある向きはどうぞ勝手にググってください。

そういうのを幼い頃に見ちゃえばさ。

もういいよ……と思うよ。

戦争反対も何も……
いらねーよ戦争!!
って思うのが当たり前だろう。

これはどこの青空だったやら?
平和である

ううむ。
話がどんどんずれている。

やはり戦争の悲惨さを知らしめるには、我が両親の窮状ぐらいでは訴求力が足りない。

ベトナム戦争でも持ち出さないことには……という考え自体が間違っていますね。

戦争にはベトナムのような明らかな悲惨さもあるけど、山国信州のような地味な悲惨さもあるわけだ。

たとえて言えば銃弾一発で終わらせるのではなく、真綿でじわじわ首を締め苦しみを長引かせた揚句に絶命させるような。

そして、どちらがより悲惨だと比べるまでもない。

どちらも悲惨なのだ。

戦争反対!

てか、戦争いらねー!!

というわけで。
私が親から聞いた数少ない戦争の話です。
何せ機能不全家庭だから、そういろいろ話はしていない。


母の兄は江田島の海軍兵だったらしい。
(まだ終わってなかったのか)

これもよく知らんけど志願して海軍兵学校に入ったんだろうなあ。

壇ノ浦だす

祖父は歯科医院をやっていたのに。
跡を継ぎたくなかったのかなぁ……と邪推。

いや当時、江田島はエリートらしかったから、受験に合格して意気揚々と行ったのかもね?

その辺も知る由はありません。

何せ母方は祖父、伯父とも無口だった。
殆どまともな会話をしたことがない。
その血を継いだのが多分私だな。

って、また話がずれてる。

江田島の海軍兵だった伯父は、終戦後も帰還兵を祖国へ送るために、ずっと船に乗っていた。

だから故郷に帰って来たのは終戦のかなり後だった。

というのが母の自慢。
立派な長兄だったらしい。無口だけど。

私が知っている亡き両親の戦争はこれぐらい。

あ、そうだ!

「戦争が終わったら農家が威張ってねぇ。これっぽっちのお米も分けてくれなんだ」
とは母の愚痴。

確か祖母の実家は農家だった。
そこに関する話かな?

長野は善光寺様

わが家の戦争の話と言ったって……まあ、こんなもんだよ。

あ、また思い出した。

元サイダー工場の祖父が言っていた。

日中戦争だったかな。
勝利して提灯行列をやったそうだよ。

「提灯行列なんて、バカな事をやったもんだ」

しみじみ言ったのは、焼け出されて長屋住まいになっていた昭和の時代。

テレビでプロレス中継を見るのが好きな祖父だった。
しかし何でプロレスはリングを掃除機で掃除するのか謎だったな。

ちなみに大火を免れたその長屋は、祖母がお小遣いで買っておいたものだという。

いわゆる長屋の大家が長屋住まいになったわけだ。

結局ずっと長屋住まいでいろいろな仕事をして、父や兄に大学を卒業させたという。

これも戦争とは関係のない話だね。

ともあれ。

ほんの少し前まで戦争は現実だった。
またこれが現実にならないためにも。
知っている限りのことを書いてみた。

とか、もっともらしくまとめてみたけど……。

いや実は、どちらかと言えば私の忘備録に近いかも。

今回書いてみて忘れかけていたこともあったから。

思い出す機会を与えてくれてありがとう。終戦記念日。

どっとはらい。

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