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いつでも、どこでも、なんだって「大丈夫だよ」

以前、記事で取り上げた
父親が先日で71歳になった。

アラフォーにもなって
父親のことを熱っぽく語るのは
どうかと思うのだけど、

去年のはじめ、
軽度の脳出血で倒れ入院してから、
ずいぶん、
親のことを考える時間が増えた。

父親には、2つの名言がある。

一つは、

大丈夫だよ

もう一つは、

今日も元気だ、おならがくさい。

である。


少し話は脱線するが、
国語の授業で、
評論文を生徒と一緒に読んでいると、

筆者が論証を強固にするために、
著名な人物の言葉ばかり引用するのが
昔から気に食わなかった。

やれ、
マルクスがどうたら、
フロイトが~、サルトルが~、
クロード・エルウッド・シャノンが~、等々。

西欧の学者の言葉の引用が多いのも気になる。

そうじゃなくて、

隣近所、
自分の身内の言葉を後生大事にして

そこから教訓や気づきを汲み取る人の方が
信頼がおける気がして、

隣のクラスの〇〇先生が残した名言があるんだ。

探し物は、探すのをあきらめたとき見つかる、

ってね。

というように、
自分の考えを述べる際は、
身近なコミュニティー内の
人間の言葉を引用するよう努めている。

ただの、
つまらない意地でしかないけど。


で、父親の名言の話。

父は、
僕に対してはもちろん、
弟たちや、母親、親戚のみならず、
会社の売り上げ、
日本の行く末まで含めて、

いっしょくたに、
おっざっぱに、
無責任に、
いつも

大丈夫だよ

と言うのが常だった。

小3のときに骨折した
 →大丈夫だよ

高1のときにバイクと衝突事故を起こした
 →大丈夫だよ

高3の時、大学受験に失敗した
 →大丈夫だよ

就職した、結婚した、転職した、子供生まれた、精神病んだ、
 →大丈夫だよ

全く根拠ゼロ。
むしろ話半分にしか
聞いていないこともわかっている。

それでも、常々、
泰は大丈夫だ。
と唱えて、揺るがないのである。

この「大丈夫だ」が
サブリミナル効果を生み、

自分の潜在意識にはすっかり、
この「大丈夫だ」が刻まれている気がする。

母親は、
父とは違い、
「大丈夫じゃない!」が先にある人だ。

いろいろとこまかく
口うるさい部分もあるけど、
誰よりも、自分を思いやって
世話も焼いてくれたから、

結局、
父性と母性の役割の
ほどよいバランスが

子どもにとっては
一番ありがたいのだろう。

それでも
今、

この年齢になって
振り返ると、

父親の
「大丈夫だ」

が自分の安心感・安全感を支えている
根っこの言葉だと感じる。

そんな思いが強いので、
今度は僕が高校教師という立場で、
生徒と接するときも、

大丈夫だ

がお決まりのフレーズだ。

生徒には、何がどうあろうと、
大丈夫だ、の一点張りで声掛けをしている。

いやいや、
だいじょばないよ!!

という反論も多々ある。

たまには怒りを買うことだってある。
最も怒りをぶつけてくるのは、
僕の妻だ(苦笑)。

そんな反論も、
怒りも、お叱りも、
ぜーんぶ、ひっくるめて、

大雑把に、アバウトに、
テキトーに、無責任に、
思慮深くなく、浅はかに、
でも、万感の思いを込めて
大丈夫だ!!

と言っていられるうちは、
本当に大丈夫な気がしている。

書いていて、
バカボンのパパの
「これでいいのだ!」
を思い出した。

通底しているのは、
世界や自分に対する
信頼感なんだろう。

そんな念を込めて、
すれ違う生徒一人一人に
「大丈夫だよ」
と言葉をかけていきたい。

今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。これを読んでくださったあなたの少しでもお役に立てたなら嬉しいです。

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