誰もが安心して生きたいと思える世の中を心から願って:村田沙耶香『コンビニ人間』読了後記
村田沙耶香『コンビニ人間』文藝春秋を読了。
本書は、第155回芥川賞受賞作である。
読みやすく、あっという間に読みきった。さっぱりとした「読み口」で、「読書の秋」のウォーミングアップに最適ではないか。
最近では、凪良ゆう『流浪の月』を読んだが(こちらは必読!)、この『コンビニ人間』にも同じテーマが横たわっているようで、どうも『コンビニ人間』のその先に『流浪の月』があるように思えるのだ。
つまり、理解されない苦しみ、普通じゃない苦しみ、居場所がない苦しみ。これらを抱えて生きる「大人」の物語なのである。
基本的には、「良い歳して定職に就かず、子供がいない」男女が中心的に記述される。そして、恵子という女性が「コンビニ人間」なのだ。
本稿では、ネタバレは避けるように留意しつつ、本書の魅力を最大限伝えられたらと思う。
本書の最大の魅力は、これまた『流浪の月』と共通するもので、「少数派の苦しみと幸せを理解する」上で非常に有意義であるという所だろう。
少数派をより具体的に挙げれば、「フリーター」「未婚者」「浪人生」「LGTB」「障碍者」「混血」「重病患者」等々で、まだまだあると思うが、少数派というのは、しばしば多数派から「雑に解釈」されてしまい、それが「少数派をさらに苦しめたり、『社会的』に追い込んでしまう」という帰結は、意外とありふれていると思われる。
この「意外」というところに、私も含めた多数派の「傲慢さ、驕り」があるように思う。もちろん、一人の人間とて、多数派の一面も少数派の一面も持ち合わせていることが普通だと考えているから、そういう意味では、「どの面の自分」かが「コンビニ人間」に感情移入することは多分にありえることである。少なくとも、大衆(普通の人々)から「受容されない」苦しみや(本人たちが必ずしも苦しいとは限らないにもかかわらず、本書でも際立つ点でもあるが、「本人たちは苦しくないということが理解されない」という苦しみや現実があるように見える。)、現実が見えてくるはずだ。
そして、本書のもう一つの主軸は、「私たち現代人の生きる意味の模索」である。世間から「底辺」のレッテルを貼り付けられた白羽さんは、現代人をしばしば「縄文人と変わらない」と非難する。
要するに、「男は定職に就いて、女はその旦那として子育てをする」という人間像を「唯一の答え」としているという意味である。
しかし、彼の言うように「現代人」は「多様性の時代に生きるからこそ」現代人ではないか。「多様な価値観や文化を受け入れる現代人」という仮面を被りながら、まだまだ「自然的、野性的価値観から自由になれない現代人」の一人として私も生きている。
「コンビニのために生きる」女性と「誰からも文句を言われずに生きていきたい」男性と、その他圧倒的多数の「家族のために生きる現代人」の相克がこの物語の中には存在しているのである。
そして、「価値観を越えて」一人一人の人間は私たちが思っている以上に、それが意識的であるにせよ、無意識的にであるにせよ、互いに「影響され合って」生きていることも見事に描写されている。
ひとつ本書から得ることのできる教訓は、「自分の善意を他人に押し付けるな」といことではないか。
最後に、本書から文章を引用して終わりたい。
「今までなら、明日の為に寝ていなければいけない時間だ。コンビニのために身体を整えようと思うとすぐ寝ることができたのに、今の私は何のために眠ればいいのかすらわからなかった。」
「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです。」
いずれも、「コンビニ人間」恵子の台詞だ。
私たちは、誰のために、何のために明日を迎えるのだろうか。
私も、誰もが安心して生きたいと思える世の中を心から願っている。