読書記録:神様の御用人8 (メディアワークス文庫) 著 浅葉 なつ
【神は案山子のように絶えず移り変わる世界を眺めている】
神として、現役の引退を考える久延毘古命は、良彦の打開の作戦として家電量販店に連れていかれ、四国の徳島では金長大明神には阿波狸合戦の諸説を集め、八幡大神には似顔絵を依頼される物語。
日本人は八百万の神としてどんな物にも神を宿してきた。
物を大切にする奥ゆかしさが、国民性として顕著に現れているのだろう。
祀られた神はどれも等しく尊くて、そこに優劣の差は無い。
そして、神もまた、豪華な供物であったり、華美な献饌などで人を贔屓にする事はない。
だが、神様は人と共に常にありたい。
だから人の神への想いが薄れると、神様の力も削がれてゆく。
神様だって常に存在価値について悩んでいる。
それは、まるでインターネットに頼るしかない現代人のようでもある。
自己承認欲求とは人であっても神様であっても根元的な苦悩なのだ。
なので、宗教であっても区別は必要である。
世の中は神仏習合であったり、分離令など神や仏に対する考え方も、次々と移ろい変わっていく。
自らが信じるものなど人それぞれであっていい。
しかし、世界の平和や日々の安寧の祈りには、区別はなくていいはずである。
今回の依頼神は、「久延毘古命」「金長大明神」「八幡大神」の三柱の神様が登場する。
狸の神様に梟、蟇、猿と親しみやすい動物達が眷属神としてたくさん軒を連ねる。
一気にアニマルワールドへと変貌する良彦の世界の中で。
就職活動で多くの内定をもらった妹の意外な悩みを聞き届けたり。
お坊さんたちが運営するBarの経営難を救ったりもする。
まずは、案山子の神様である久延毘古人に知恵を授けてくれる神様であったが、知識はあっても動けない自分に嫌気が差して、役に立たないと引退を考える。
そんな彼を見て、良彦は知識と経験が両立する事が大切であると悟る。
知識があっても、宝の持ち腐れ。
何もした事がないのなら、知らない事と同じ。
インターネットで検索して、さも訳知り顔の現代人が多いが、それは本物の知識とは言いがたい。
実際に体験してみないといけない。
実際に自分で体験するからこそ、自らの血肉となる。
経験でこそ得られる感動が、確かに存在する。
自分で体験した事は簡単には忘れられない。
本当に生きるという事は、良くも悪くも新しい体験を積み重ねていく事だから。
良彦に誘われた田植えで気持ちが変わった久延毘古命。
そして、体が半透明になり焦っていた、狸の金長大明神から諸説ある「阿波狸合戦」の話を集めてほしいと頼まれたと思えば、八幡大神からは「顔を描いてくれ」と無茶な要求をされる始末の良彦。
金長大明神は、原本の最後の言葉によって、勇気づけられる。
八幡大神は、時代ごとに人の子の求める神であろうと顔を変えてきたが、今の時代に見合った顔というものが分からずに作れなくなっている。
そんな神様のセラピストとも言える御用人の良彦は、彼なりの冴えたやり方で八幡大神に自信をつけさせる。
それは、その昔に僧侶を経て還俗して、加納に弟子入りした英俊の作品を見させる事で、自分は自分らしくあれば良い事に気付かせる。
喜怒哀楽を取り戻した嬉しそうな八幡大神の顔を見て、思わず笑顔がほころぶ良彦。
そして、思い知らされる。
毎日の暮らしの中には、たくさんの神様がいる事を。
人が創った物語の中で生まれた神様や、人々の切実な祈りの中で生きる神様。
だから、日本という国にはたくさんの神様がいる。
世の中は劇的に変わっていっても、人々が神に祈りを捧げる意味は変わる事はない。
良彦は御用人を勤しみながらも、相変わらず、金欠状態であったが、穂乃果の大学の入学祝いをちゃんとしてあげられた。
それも、清掃業のバイトを掛け持ちして、両立させた賜物であった。
実際に自分で動いて、体験して流した汗によって得られたお金で、誰かが喜ぶ事をしてあげる。
それこそが、自己肯定感を上げる、自らの幸せなのだと良彦は信じる。
そして、神様の御用も、悩みを解決するだけではなく、何を不安に感じているのか、本人に気付かせる事で、神様自身が生き抜く力を与えるのだと自分に言い聞かせる。