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倭・ヤマト・日本15 新羅による半島統一と新しい倭国のあり方


倭に朝貢してくる新羅・高句麗・百済


白村江の戦い後、唐本国と倭国のやりとりが意外と少ないのに対して、『日本書紀』には新羅や高句麗、百済が貢物を持ってきたといった記事が何度も出てきます。

これは何を意味しているのでしょうか?

新羅は半島出兵・白村江の戦いでは唐の同盟国であり、百済・倭の敵でしたから、そんなにすぐ倭に接近してくるというのは、何だか違和感があります。

高句麗は百済滅亡の後、唐の大軍と存亡をかけた戦いをしているので、援軍を倭に要請するため、貢物を持ってくる必然性はあったのかもしれません。ただ、倭国としては唐と国交回復した手前、軍事的に高句麗側につくわけにはいかなかったでしょう。

百済は滅亡したはずですから、公式な使節扱いするのはおかしい気もします。ただ、これは百済の残存勢力が旧百済領内で自分たちの勢いを回復するために、旧同盟国だった倭国に援助を求めていたのかもしれません。

『日本書紀』の記事は、ただ新羅や高句麗や百済が朝貢してきたと記しているだけで、そこにどんな目的があったとか、何か要請されたといったことは書かれていません。

しかし、『朝鮮史』(武田幸雄編)などによると、この時期の唐は高句麗に侵攻していただけでなく、同盟国だった新羅とも険悪になっていて、これが事態を大きく変えることにつながったようです。


唐に反乱を起こした新羅


唐は百済滅亡後、旧百済領を都督府として唐軍の統治下に置いただけでなく、同盟国である新羅も都督府のひとつにしてしまっています。

つまり滅んだ百済も、唐と同盟して勝者側になったはずの新羅も、等しく唐の属州みたいな位置付けにしようとしたわけです。

ここに周辺諸国を低レベルの野蛮人として見下す中華帝国伝統の傲慢さが表れています。

新羅はこれに強い反感を抱いていました。

さらに668年に高句麗が滅亡すると、唐はこれも都督府として統治下に置きました。

つまり、高句麗・百済・新羅が半島内で紛争を起こしたために、超大国唐の軍事介入を招き、半島丸ごと支配下に組み込まれてしまったわけです。

これに対して新羅は670年、旧百済領内で唐に反乱を起こします。

唐の百済領内の拠点は防備が脆弱だったようで、新羅軍は唐の拠点を次々攻略していきました。唐本国の反応も鈍く、しばらくのあいだ新羅軍は優勢を保ったようです。


意外とピンチだった唐


674年になって唐が旧百済領へ新羅征伐軍を派遣し、状況は逆転するのですが、壬申の乱が起きた672年はその前、新羅が旧百済領の都督府、つまり唐軍の支配エリアをひとつひとつ制圧していた時期にあたります。

唐の反応が鈍かったのは、この頃他の周辺諸民族との戦いに追われていたからです。

唐は百済を平定したとき主要都市・地域である熊津都督府だけ百済人に統治させていますが、高句麗を平定したときは、全域の統治を高句麗人に任せています。これも唐の寛大さというより、周辺地域との戦いに兵力を取られ、高句麗を直接統治するゆとりがなかったというのが実情かもしれません。

こうして見ると、唐が665年の使節団以後、倭国に直接の使節を派遣してこず、連絡が途絶えがちだった理由もわかるような気がします。

要は半島や周辺地域の異民族との戦いで、それどころではなかったのです。

隋は周辺勢力との戦い、特に高句麗との戦いで消耗し、短期間で滅亡していますが、唐もまかり間違えば同じような事態になりかねなかったでしょう。


半島で効かなくなった唐のグリップ


新羅や高句麗がかなり頻繁に倭へ使いを送ってきたというのも、これまで僕は『日本書紀』にありがちな作り話なのかなと考えていたのですが、唐との抗争を考えると、あり得ないことではなかったのかなという気もします。

唐が半島勢力を大軍で圧倒し、反抗など考えられないくらいの力で支配していれば、新羅も高句麗も倭に支援を求めたりしなかったでしょうが、現地人の自治を認めたりして、グリップが甘かったことで、つけ込む隙を与えてしまったのかもしれません。

旧百済領を統治していた唐の武将・劉仁願(倭国に最初の使節を送ってきた司令官)は668年、高句麗との戦いに加わるよう唐軍の本部から司令を受けたのに、逆らって参戦せず、罪に問われて中国奥地に流罪になっていますが、これも紛争地における唐のグリップが効かなくなっていたことを物語っているように思えます。

現地司令官である劉仁願としては、そもそも旧百済領を支配する駐留軍が十分でなく、軍を高句麗攻略に差し向けたら、こちらの守りが手薄になり、唐に不満を抱いている新羅の侵攻を招きかねないことがわかっていたのでしょう。

そして彼が流罪になると、新羅の侵攻は現実になりました。


新羅の粘りがち


旧百済領で有利に戦いを進めていた新羅は、674年に唐が本格的に新羅討伐軍を送り込んでくると、謝罪の使いを送って和睦しますが、その後また反撃に出て、676年に唐軍の一部を破るなど、超大国を相手に善戦します。

事態はそこから膠着化してしまい、唐は新羅の旧百済の領有を認めませんでしたが、新羅による実効支配は続きました。その後唐は吐蕃(チベットの異民族)との戦いに敗れたりして、軍事的な余裕がなくなり、678年新羅討伐を断念しただけでなく、半島から軍を撤退させます。

これを受けて新羅は、旧高句麗の南部と旧百済・新羅をあわせた半島全体を統合します。

半島の小国だった新羅が、超大国・唐としたたかに戦って勝利したのです。

また、698年に高句麗の北部から日本海沿岸にかけて、渤海という国が起こりますが、これは旧高句麗とそれに隣接する地域の勢力によって建国されたと言われています。渤海は日本の平安時代初期にあたる926年まで存続し、唐に次ぐ国交・貿易相手国になります。


壬申の乱は何をめぐる抗争だったのか?


この半島における紛争や新羅の勝利を踏まえて、もう一度壬申の乱を考えてみると、改めてこの内乱がどういうものだったのかという疑問が生まれます。

最初は白村江で超大国・唐と戦い敗北したことで、倭国はいかに唐と和睦するかという問題だったのかもしれませんが、これは664年の旧百済に駐留する唐軍との接触と、翌665年の唐本国からの公式使節との交渉で一応解決しています。

となると、672年には何が争点だったのでしょうか?

それはおそらく古墳時代を通じて続いてきた国のあり方でした。

古墳時代には大陸の遊牧民・騎馬民族の侵攻による地殻変動を受けて、大陸・半島から様々な勢力が倭国へ渡ってきました。それらの勢力は地方に権力基盤を構築し、パッチワーク状態が生まれました。

それらの勢力の抗争を経て、巨大古墳が築かれた4世紀の終わり頃から5世紀には、統一国家が生まれたようですが、民族的に均質化した新しい倭人が生まれたわけではなく、半島や中国大陸にルーツを持つ様々な勢力は残り、そのリーダー的な氏族・豪族が連合して国を運営していました。


百済との運命共同体的同盟


6世紀の仏教伝来あたりから、倭国は百済との協力関係を深め、百済経由で中国南部の文化・技術・制度を導入して、当時の「近代化」的な革新を進めるのですが、飛鳥時代と呼ばれるこの革新の時代に、倭国は百済と運命共同体的な連合国家を形成したようです。

7世紀の半島の動乱で、百済が唐・新羅連合に滅ぼされとき、百済を再興するため、倭国が軍を半島に送り、663年白村江で唐の大軍と戦ったことに、倭国と百済の運命共同体的な結束の強さが表れています。

唐軍に敗北したことで、百済の滅亡は確定し、倭国は百済という同盟国を失い、超大国・唐を敵に回してしまいます。

百済との運命共同体路線が裏目に出たわけです。


求められた新しい国家


この危機は唐と665年に国交回復したことで、一応回避されましたが、倭という国家には、百済との運命共同体路線が破綻した今、パッチワーク時代からの地方豪族や、中央政権を構成する豪族からなる、統一的なアイデンティティーのない古代連合国家があるだけです。

乙巳の変で中大兄が蘇我氏を滅ぼし、中央集権的な国家制度の確立をめざした大化の改新を進めることで、倭国は氏族・豪族連合体制から脱皮したと前に書きましたが、それは彼が絶対王政的な権力を持ち、氏族・豪族がそれに従っていることで可能だったのです。

百済との運命共同体路線が破綻した今、彼はそれらの勢力の信頼、権力の根拠を失っていました。

大海人が壬申の乱で反乱に踏み切り、その後即位して行ったのは、信頼を失っていた天智の体制を武力で破壊し、その後に新しい倭国を構築するためだったのではないでしょうか。

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