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勉強の時間 自分を知る試み4
告発の弁証法と理性的な処方箋
人類が知恵・テクノロジーで他の生物を支配したり滅ぼしたりしながら、地球の覇者になったこと、その知恵・テクノロジーが同時に人類自身を束縛し、支配してきたことを暴いた『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリも、ある意味ヘーゲルの弁証法的な論法を使っているんじゃないかというふうに見えます。
ただ、その暴露のしかたが、論理的に読者を説得するというより、いろんな歴史的事実をこれでもかこれでもかと突きつけるので、ユダヤ教の預言者の断罪みたいな印象を受けるのですが。
ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』『ホモ・デウス』の後に『21のレッスン』という本を出しています。
『サピエンス全史』が人類の過去から現在まで、『ホモ・デウス』がそれをふまえた人類の未来についての本だとすると、『21のレッスン』は今人類が直面している問題、危機の本質について語っています。
その問題、危機は前の2冊の本でも語られていることなので、前半はそのおさらいをしながら、現在の社会的、政治的な危機と、その先にやってくるディストピア的な世界について語っています。
後半はそうした危機の根源が、自分が属する国家や民族や宗教を過大評価したり、限られた視野に閉じこもって、その外にある他者やその価値観を否定したり憎んだりといった人間の誤った思い込みにあることを説き、そうした思い込みに囚われずにものを見て、冷静に謙虚に判断することの大切さを説いています。
行き過ぎた信仰が人間の思考を縛ってしまう宗教の弊害について語りながら、彼はキリスト教やイスラム教、仏教やヒンドゥー教、儒教について語り、ユダヤ教についても語っています。
どの宗教にもプラスの機能があると同時に、古い教義や戒律に囚われることがどんな弊害を生むのかについて語るとき、彼はどの宗教対しても容赦しません。
この本ではルネサンス以来、西欧文化の発展を可能にしてきた世俗主義、つまり特定の宗教や神に依存せず、冷静に現実を見つめ、科学的・合理的に考え、行動する姿勢を評価しています。
その意味で彼はモダニズムの人のようです。
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知性と瞑想
ただ、若い頃に瞑想のクラスを受講してから、ずっと毎日2時間の瞑想を続けているとのことなので、その意味では東洋的な精神文化を評価しているようにも見えます。
彼に言わせると、人間の世界は哲学や宗教などの精神的な領域も、理系・文系の学問も、実社会の仕組みも、そこに用いられているテクノロジーも、あまりに複雑化・専門分化していて、1人の人間がすべてを把握するのは不可能だし、その上、感情に支配された人たちの誤った思い込みやデマが横行していて、それがインターネットのせいでとんでもなく増幅され、何が事実かを見抜きながら考え、行動するためには、目先の情報に引きずられるのではなく、瞑想によって冷静さを保つ必要があるということのようです。
『サピエンス全史』『ホモ・デウス』では、人類の本質的な罪業を神のごとき峻厳さで断罪しているような印象を受けたのですが、この『21のレッスン』では結局のところ、そうした人類が自分たちで生みだした危機に対処するには、1人1人が架空の物語の幻想に惑わされず、謙虚に冷静に判断していくしかないという、すごくまともな教えに行き着いています。
『サピエンス全史』の語り口がユダヤの予言者を思わせることについては何の言及もないですし、彼自身はユダヤ教とはっきり距離を置いているようなので、少なくとも当人にそういう自覚はないようです。
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大きなことを語る難しさ
ここまで、何冊かの本について、僕が理解したことを読書感想文的に書いてきましたが、そのあいだに少しずつ見えてきたこと、気になりだしたことがあります。
それはどの本も人類とか、世界とか、大きなくくりで語っているのに、その話し方が個人的というか、一人称単数の語り手による説明だということです。
対象が人類とか国民とか民族のように、集合的な人たちの集合的な想いや認識、行動なのに、語り手はそれをまるで自分の外にあるもののように、ただ客観的に語っています。
もちろん学術的、科学的な語り方というのはそういうものなのかもしれませんし、そうでなければ比較対象や検討できるような、客観的なかたちで発表できないでしょうから、それでいいのかもしれません。
ただ、そうした本に書いてあることをなぞりながら、「人類は」とか、「狩猟採集時代の人間は」とか、「古代ギリシャは」とか語っていると、どうしてもその対象が言葉から滑り落ちているような違和感がありました。
そうした人類とか狩猟採集民とかギリシャ人は集合的なわけです。しかし、彼らがどうしたこうしたと本の作者が語るとき、作者は後の時代から、つまり完全に外から見ながら、彼らの考えや行動について語っています。
そこで語られる彼らは集合的な存在なので、集合的に考え行動しているように語られていますが、それは後世から見て、弁証法的にそう見えるということであって、実際に原始時代や古代の人々が、どんな世界に住んでいると感じていたか、認識していたかはまた別問題です。
もちろん近現代から原始時代や古代を見ているからこそ、昔は見えていなかったものが見えるわけですが、そうやって近現代から光を当てて見るだけでは、見えないものがあるんじゃないでしょうか。
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基準のすり替え
たとえば、近代の経済と科学がリードする世の中の仕組みは、ヨーロッパのルネサンス以降に始まり、17世紀あたりからエスカレートして産業革命や政治的な革命を経て現代に至るとも言えますが、その仕組みの源流は古代ギリシャまでたどることができるとも言えるし、古代エジプトの占星術やミイラ製造技術、建築技術など、宗教と科学が未分化だった時代までたどることができるとも言えるでしょう。
しかし、古代ギリシャ人も古代エジプト人も、近現代人のように合理的な考え方で数学や天文学や建築技術をとらえていたわけではありません。彼らの数学的、科学的な意識は、神々とか天界とか、それらとコミュニケートするときに生まれる美とか神秘的な活力と不可分のものでした。
そうしたものを切り捨てて、「古代人がこんな昔から高度な科学技術を知っていた、使っていた」みたいなことだけをクローズアップすると、いつの間にか評価の基準が古代から近現代にすり替わっていて、当時の人たちが認識していたものは隠れてしまいます。
僕も歴史とか国家とか社会とか、大きなものについて語っているわけですが、語っていると、そういう視点や基準のすり替えを自分も無意識にやっているんじゃないかという疑問が湧いてきます。