勉強の時間 自分を知る試み10
國分功一郎『中動態の世界』5
人間か動物か
類的、集合的な意識と個人的な意識のちがいについて、もう少し別の角度から考えてみます。
たとえば食べるとか、食べるものを確保するために戦うとか、敵の襲撃から自分達を守るといった、生きるために行動するときの意識についてです。
こうした行動では、どこまでが動物で、どこからが人間、つまり知的になった人類、ホモ・サピエンス固有の意識が働くのでしょうか。
人間は子孫を残すために食料を手に入れ、食べ、生殖活動をして、子供を育てますが、これは動物もやっていることです。
人間の場合、そうした行動にも、どんな仕事をするか、どんな会社に勤めるかとか、どんな異性と付き合うか、結婚するかとか、動物に較べると色々ややこしいことを考えますが、考えたり行動したりする意欲は、基本的に生きようとする意欲です。
どうやってカネを稼ぐか、そのカネをどう使うかも、衣食住から娯楽、教育まで色々複雑ですが、基本的に生きるためという意味では、動物が巣を作って暮らし、そこで子供を産んで育てる行動の発展形態と言えるでしょう。
そうした行動をとるのは、本能の作用でしょうか?
人も動物も、そういうことをしようとする意欲、欲求があることはまちがいないでしょう。
個人と集団
それでは、その意欲、欲求は個人的、個体的なものでしょうか?
欲求して行動するのは、人間も動物も個体です。しかし、類的・集合的に見れば、たくさんの人間、あるいは動物が同じように欲求し、行動しますから、類的・集合的な欲求であり、行動だと言えるでしょう。
人間が生きようとする意欲の中には、性的なものや金銭的なものもあるし、人によってはエリートコースをめざしたいとか、科学やビジネスや音楽、スポーツなど自分が興味を持つ分野で成功したいといった、いかにも人間的な意欲、欲求、夢みたいなものもあるかもしれません。
それぞれの分野に必要な知識や技術は複雑で、動物にはできないかもしれませんが、それでも自分がやりたいことをやる、自己実現するという欲求は、意識することの複雑さにちがいはあるものの、基本的にあらゆる動物が持っています。
集合的な意識
それでは精霊と交信したり、神々を崇拝したりといったことはどうでしょう?
ここから人間と動物の分かれ道が始まるのかもしれません。
石器とか土器とか、道具を色々工夫して、より多くの食料を獲得できるように進化していくというのはどうでしょう?
これも人類ならではの行為です。
ただし、石器や火の使用は、6〜7万年くらい前に知的になったホモ・サピエンス特有のことではなく、それよりはるか前、類人猿から分かれた原人たちもやっていました。
ホモ・サピエンスがアフリカから進出する前、中東・ヨーロッパに広く住んでいたネアンデルタール人は、精巧な石器を作っていたと言います。ただし、数十万年彼らは同じかたちの石器を作り、使い続けたとのことなので、そこはホモ・サピエンスとちがうところです。
進化のエスカレーション
ホモ・サピエンスは地球のあらゆる地域に広がりながら、どんどん道具を進化・多様化させ、組織的に行動し、気候の変化にも対応しながら、数を増やしていきました。
認知革命によって概念というものを操作したり、伝えたり、変化させたりできるようになったことが、そうした道具の進化を加速させたとユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で言っています。
人類の特徴、他の生物に較べると異常とも言える点は、進化の加速です。エスカレーションと言ってもいいでしょう。
6〜7万年前に始まったと見られる認知能力、意識、概念による進化は、1万数千年前までは狩猟・採集生活に使われる技術、組織に関わるものでした。
つまり狩猟・採集民として私たちの祖先は5〜6万年を過ごし、その間にアフリカからユーラシア大陸に広がり、アメリカ大陸やオーストラリア、南太平洋に渡り、全世界に広がったわけです。
1万数千年前に定住生活が始まり、農耕・牧畜で食糧生産が増加すると、技術も組織の進化が一段と加速し、都市が造られ、国家が運営されるようになります。
狩猟・採集時代の移動、生活圏の拡大は、人口に見合った食料の調達という直接的な動機によって、小規模な部族単位で行われたと推測されますが、国家が形成されるようになると、移動や生活圏の拡大は、侵略・征服・支配というかたちをとるようになります。
国家と侵略・征服・支配
狩猟・採集時代にも部族間の小規模な争いはあったでしょうが、農業で国家が確立されると、他国を征服して自分たちの制度の下で支配したり、奴隷にしたり、農耕民として働かせて税を取り立てたりといったことが行われるようになります。
食料の調達は動物的な本能、生きるための意欲とつながっていると見ることができますが、戦争とか征服とか政治的な支配といったことはどうでしょう?
それらも自分たちの生活圏の拡大ですから、生きるための意欲がはたらいているとは言えるでしょうが、戦争のための技術や支配のための制度など、概念が介在する部分が大きくて、生きるためといった直接的な動機はあまり意識されなくなっていたかもしれません。
それよりも、王や王族、貴族、神官など国の支配者たちは、支配者としての栄誉とか権力の拡大、国や民族の繁栄といったことを意識したでしょう。あるいは神々が喜んでくれるとか、祝福してくれるといったことが動機になっていたかもしれません。
信仰による支配
支配階級以外の一般的な民はどうでしょう?
ただ支配者たちの下で農耕などに従事して、必要なら戦争に駆り出されたりしていたかもしれませんが、神々への信仰とか、王への忠誠心みたいなものがあるだけで、国がやることに対して、特に個人的な意識とか感想を持ったりしなかったかもしれません。
こういう国家や宗教による支配の仕組みが機能するようになると、人類と動物のちがいがはっきりしてきます。
人類も動物として、子孫を残すことで種を保存しようとしているのでしょうが、動物としての人の本能は直接そこに機能するのではなく、神々への信仰や国家の栄光といった神話、フィクションの世界に属するモチベーションが人間を、集団的な拡張へと駆り立てるようになります。
ひとりひとりの人間とか、家族とか親族といったレベルでは、異性との生殖活動を通じて子孫を残す、増やすといったことが行われますが、国家や民族など、もっと大がかりなレベルでは、領土の拡張、他国や多民族からの富の収奪といったことが意識されるようになります。
もちろん古代や中世にも、あまり領土の変更が起きない、安定した時代もあったでしょう。武力による領土の拡大と支配は、征服された地域にあまり不満が溜まらないように、巧妙な統治が行われたとしても、そんなに長く続きません。
装置としての国家と宗教
中央集権的な支配が続いた典型的な地域は中国ですが、支配・統治の仕組みが発達して、広大な領土を支配する帝国が生まれたこの地域ですら、数百年ごとに帝国が崩壊し、戦乱の時期や、数カ国による分立の時期があったり、モンゴルなどの騎馬民族による支配があったりしました。
ヨーロッパでは古代ローマが長い年月をかけて帝国へと発展し、束の間の安定期のあと数百年の混乱と衰退を経て滅んだわけですが、その後は中世的な国家分立の時代が続きました。
柄谷行人によると、ローマに続く中央集権的な帝国が成立しなかったことで、商人が交易を発展させることができ、中世末期には、ヨーロッパ各地に交易ルートが張り巡らされ、商業都市が発達しました。
特に中東やアジアとの交易で栄えたイタリアには、ヴェネチアやジェノヴァ、フィレンツェなど、商業立国的な都市国家が生まれました。
中世はおおまかに見ると、分立型の国家とローマカトリック教会による抑圧的な支配の時代でしたが、商業の発展が徐々にこの支配を変え、ヨーロッパは再び拡張の時代に入ります。
この拡張を生み出す源泉は、大きく見れば科学と経済の発展でした。
ただし、時代は近代へと直接移行するのではなく、地域ごとに封建貴族が支配していた中世から、フランスやイギリス、スペインなどの統一国家による権力の統合、大規模な国家による商工業の発展といった、いわゆる近世、絶対王制を経て、近代国家が誕生していきます。
近世も近代も政治や軍事が大きくものを言う時代ですが、争い事の根底には常に経済があり、言い換えれば経済によってすべてが動く時代になったと言えるでしょう。