三千世界への旅 魔術/創造/変革8 ソクラテスの「魔術」3
ソクラテスが追求したもの
『ソクラテスの弁明』の中で、彼は本気でソフィストたちに教わりたいと思い、色々質問しただけだといった意味の弁解をしていますが、それは半分本当で、半分嘘だったでしょう。
自分が知らないことについて、当時の知識人であるソフィストたちが知っているなら教わりたいと思ったことは嘘ではないかもしれません。
しかし、彼の質問のしかたや、誘導のしかたを見るかぎり、彼は明らかに自分が求めていることにソフィストたちが応じられないことを見切っていたと思われます。
あるいは最初は純粋に知りたいと思っていろんなソフィストたちに質問始めたけど、だんだんソフィストが意外にポンコツで、自分たちが何を根拠に主張しているのかわかっていないことに気づくようになったということかもしれません。
ソクラテスは考えるということについて考えたおそらく最初の人でしたが、この点について当時のソフィストたちは子供同然でした。そしてそのことについてソクラテスはかなり自覚的だった、あるいはだんだん自覚していったということなのかもしれません。
ソクラテスの思想革命と「魔術」
考えることについて考えること、考え方について考えることは、後に哲学と呼ばれることになる学問のジャンルの出発点ですから、その意味でソクラテスを「哲学の祖」と呼ぶのは間違いではないでしょう。
しかし後世の哲学と、ソクラテスの考えることについての探求はひとつの点で大きく異なっています。後世の哲学者たちは哲学書を書き、考え方を固定し、考え方の体系を構築しようとしましたが、ソクラテスは本を書かなかったし、固定した体系を構築しようともしませんでした。
それはまだ哲学の草創期だったから書けなかったのでもないし、単にソクラテスが本を嫌ったから書かなかったということでもないでしょう。彼にとって考えることとそれを文字に固定し、体系化することは、鋭く対立する行為だったのです。
ソクラテスがめざしたのは、固定された論理の体系を構築することではなく、ひとつの考えに対する様々な疑問を検討し、よりよい仮説を導きながら、より真理に近づいて行こうとする、ダイナミックで永遠に終わらない創造的な探求でした。
当時のアテネ人たちの多くはその意義を理解できませんでした。雑多な考え方が許された多神教世界の住人である彼らには、ソクラテスの探求は彼らの世界を否定する異端的な思想と受け取られました。
ソクラテスが告発され、死刑を宣告された理由のひとつは、異端の神を崇め、当時の神々/宗教に反する考えを広めたというものでしたが。当時のアテネ人にとっては未来の哲学が、異端の信仰に基づく魔術に見えたわけです。
逃げなかったソクラテス
ソクラテスの最後の座談はソクラテス自身が逃亡すべきかどうかというテーマで行われました。それが前回紹介した『クリトン』です。
この作品では、ソクラテスの友人クリトンが死刑執行の直前、牢獄に侵入してソクラテスに逃亡を勧めるのですが、ソクラテスはいつものように議論をリードし、逃亡すべきでないことをクリトンに納得させてしまいます。
当時のアテネにはソクラテスを死罪とした判決に批判も少なからずあったので、ソクラテスが自説を撤回するとか、追放刑というオプションを受け入れれば、死刑を回避できるという道も残されていました。クリトン以外の友人や弟子たちもソクラテスに追放の受け入れを勧めていたとい言います。
しかし、彼はそうした逃げのオプションを拒み、決然と自死を選びました。それはなぜでしょう?
自説を曲げて自己批判したり、追放を受け入れたりしたら、彼の革命的な考え方を自ら引っ込め、あやふやな当時の常識的な考え方を受け入れることになってしまいます。
少なくともアテネ、ギリシャ世界の多くの人はそう受け取るでしょう。それに対して、死刑を受け入れて自死すれば、彼は命と引き換えに自分の思想を貫いたことになります。
この死罪を逃れることができるのにあえてそうしなかったという決断は、ソクラテスが自分のしたこと、考えることについて考えるという行為の重要性を自覚していたことを物語っています。彼はただ無邪気に真理を知りたくてソフィストに「なぜ?」「どうして?」と訊いていたわけではなく、全ての学問・研究が正しく真理を追求できるように、その基盤の構築をめざしたのです。それは自分の命より大事なものでした。
ソクラテスにとっての真理
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、死の直前にコレージュ・ド・フランス(学者・研究者など超インテリ向けの公開市民講座みたいなものらしいです)の講義で、ソクラテスは単に考え方を探求する哲学の祖ではなく、体制に徹底して反抗する犬儒派/キュニコス派(ソクラテスの弟子アンティステネス、それに続く世代のディオゲネスなど、世俗的価値を否定して自然に即したミニマルな生き方を貫く人たち。ディオゲネスはあえて全裸で路上生活したりしました。ちょっと60年代のアメリカのヒッピーを思わせるところがあります)に通じる、倫理的探求者の先駆だったのではないかと語っています。
また、弾圧され、自分の思想に殉じて死んだという意味では、後のキリストに通じるとも言っています。(ミシェル・フーコー『真理の勇気』コレージュ・ド・フランス講義1983-84年度 慎改康之訳)
一方、当時の宗教観とぶつかり、宗教を否定した罪に問われたという意味では、異端的宗教家と見ることもできるでしょう。
なんらかの宗教が生きて支配していた国・時代では、体制や時代の常識に逆らう先駆者の思想や行動は、古代ギリシャであれ、ルネサンス期であれ、異端・魔術的と見なされ、弾圧される危険にさらされたのです。
魔術とは不思議の術ではなく、古い体制や常識から見た破壊的で創造的な革新の別名と見ることもできるわけです。
「絶対的真理」とソクラテスの真理
ソクラテスはソフィストたちによる根拠薄弱な説や雑な論理を許さなかった人ですが、絶対的真理の観点から雑多な学説を批判・否定したわけではありません。
今日私たちがなんとなく受け入れている科学的な真理、絶対的な真理があるという考え方は、近代以降に確立されたものです。その源流はユダヤ教やキリスト教のような一神教にあるのかもしれません。唯一絶対の神がいて、世界や宇宙を作り、支配しているから、神の意向に沿ったことは絶対的な真実だというわけです。
この絶対的真理への志向は、近代ヨーロッパで科学をはじめいろんな学問がカトリック教会の支配を脱し、人間中心の学問になってからも続いていますが、ここでひとつ押さえておきたいのは、ソクラテスにとって真理とはそういう意味での絶対的な真理ではなかったということです。
謙虚に探求する姿勢
ミシェル・フーコーは『真理の勇気』におさめられている講義の中で、ソクラテスが真理(パレーシア)について論じている文章を解説しています。
それによると、ソクラテスにとっての真理/パレーシアは、カトリック教会が神の権威によってすべての上に掲げる固定された絶対的真理ではありません。ソクラテスは色々な考え方の不備を指摘しましたが、決して多様性を否定して、「唯一の真理」を掲げたわけではありません。
彼の発言から見てとれるのは、色々な考え方を検討し、不備なものは採用せず、より妥当な考え方をしようという、とても謙虚な姿勢です。その姿勢とはむしろ人間とか考える自分とかをすべての上に置いて絶対的に正しいとする傲慢な考え方の否定です。
ミシェル・フーコーはヒューマニズムの傲慢さを否定し、告発した思想家ですから、ソクラテスがどういう姿勢で真理を追求したのかがとても気になったのでしょう。ソクラテスの謙虚な姿勢は、オランダの思想家スピノザが批判した人間の傲慢さ、自然の中から人間だけを抜き出して特権的な地位を与えるヒューマニズム専制主義に対する否定にも通じています。