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もう一つの家族を求めて

無性の愛やら、ラブソングなどといった感情はボキが男だからなのか、母親に抱く感情は父親や他の家族とは違う。
当然ながら変な意味ではなく、言葉で表現するのは非常に困難なのだが、詩的な表現が許されるのであれば「帰れる場所」なのだろうか。

抽象的な表現で恐縮だが、「帰れる場所」が存在するから甘えたり、散々と外で好き勝手に振る舞おうとも、「帰れる場所」があるからこそ希望が持てる。
または生かされている意味の重大さを噛み締める事ができるのだと、勝手ながら思うのだ。

こういった事柄とは直結しないまでも、個人的にこの作品を紹介したい。
邦題『LION/ライオン 25年目のただいま』である。


ご存知の方も多いだろう。
既に鑑賞した方々あであれば、この作品は何度も泣かされる映画である事を。
ええ、ボキもその一人です。
「泣かされるんだろうなぁ…」などと考えながら最後まで鑑賞すると、想像以上に泣かされましたわ〜😂

この作品は実際に鑑賞して頂きたいので、物語に沿う内容を語るのではなく、主観的に感じた視点で語らせて頂きたい。

舞台のインドだが、人口は後に中国を超えて大国となるのはご承知の通り。
但し、アメリカの大国とは違い、インドは貧困層が非常に多い国である。
また宗教と言語が多数存在するので、いざ大規模な選挙が行われると一日では終わらないほど混乱を招く事も珍しくないらしい。

主人公のサルーと兄のクドゥは家に妹を残し、母親の稼ぎでは生活が補えない為、違法を承知で木炭を盗みマーケットに売り込み食品と交換する生活を繰り返す。


やがて兄のクドゥはもっと稼ぎたいと考える様になり、仕事を求め家から出る事を決意する。
兄の後ろ姿を見て育ったサルーはクドゥの後を追い、自分を認めてもらいたいと力がある事をアピールするが、クドゥは即却下する。
その理由は、母親と妹を残し誰が面倒を見るのかと?と、既に男として兄は認めていたのだ。
それでもサルーは兄から離れなかった。

真夜中に差し掛かり、兄弟は駅に向かう。
しかし、兄弟は逸れてしまうのだ。
更に最悪な状況が続く。
兄を探す事に疲れたサルーは、停車している電車でうたた寝をしてしまうのだ。
しばらくしてサルーは目を覚ますと、電車が動いており窓から覗く風景は見た事のない世界であった。
不安が募るサルーだが、辿り着いた場所は今まで住んでいた場所で使われる言語ではなかったので、元の場所に戻りたくても言葉が伝わらないので困難を極めた。


やがてサルーは知らぬ場所を彷徨う。
一時はストリート・チルドレンと呼ばれる捨て子が集う場所に留まる。
しかし、夜中に寝ていると複数の大人達が寝ている子供を攫うのだ。
目的は映画では語られてはいなかったが、恐らく人身売買や違法の臓器売買が目的と思われる。
この様な現象は先進国の日本では稀だと思われるが、実は例外ではなく、年間数千人の子供達が行方不明になっているのだ。
決して大袈裟ではなく、この様な卑劣な行為は世界を通して深刻な問題であると知るべきである。

話は中断してしまったが、サルーは何とか逃げ切ると、途中で女性に話しかけられる。
その女性は現地の言葉とサルーが住む言語まで喋る事ができた。
汚れた衣服がホームレスである事を語っている目の前の少年を見た女性は、さぞお腹も空かせているだろうと心配し自身の家に招く。

風呂に入り、久しぶりに食事らしい物をご馳走になったサルーは、救われた実感と緊張感がほぐれ数日ぶりに熟睡するのだ。
数日を過ごした頃、女性は知らない男性を連れてくる。
正直、サルーは違和感を覚える。
その男性はやたらと体を触り、女性に向かって、「よし、大丈夫そうだな」と呟く。
その男は夜になったら迎えに来ると告げ一旦帰る。

またもサルーは緊張感を覚える。
小さな子供ながらも、「ここにいてはダメ」である事を直感で覚える。
そして女性がサルーから目を話した隙に逃げ出すのだ。
女性は途中まで追って来るが、エネルギーに満ちていた子供の体力には敵わなかった事を認め、諦めた様子だ。


それからサルーは同じ境遇の子供達が集められる施設に収容される。
自身の名前と出身地である「ガネストレイ」に帰りたいと施設の人間に告げる。
些細な情報だが新聞や警察に届け出を出すが、有力な情報は得られないままだ。

しばらく施設で過ごすと、サルーは外国の夫婦にもらわれると知らされる。
サルーの心境は複雑だったが、その考えとは裏腹に、施設内の子供達はサルーを羨ましいと感じていた様だ。
そのまま取り残されるよりも、幼いうちにもらわれた方が少なくても「普通」の生活を送れるからであろう。

日本では「普通」という言葉自体に麻痺しているというか、平和ボケしているから理解できないだろうが、インドの様な貧困層の人々にとって「普通」という概念は「最高」を意味しているのだろう。

やがてサルーは、遠い海の向こう側に位置するオーストラリアに住むスーとジョンのブライアリー夫妻の養子として迎えられる。


時は20年と言う月日が流れ、サルーは成長を遂げる。
かつて住んでいたインドと違い、オーストラリアでは学ぶ事ができて、人権が尊重され、それぞれの人間に自立を意識する事が許されるのだ。


また、未だに自由恋愛が許されない地域が少なからず存在する。
インドもその一つだが、最近では首都や富裕層が住む地域ではグローバル化が進み、公用語に英語を交えたりと、恋愛もまた自由の選択肢として当たり前となっている様だ。
しかし、しきたりを重んじている地域では未だに自由恋愛という概念がない場所も存在するのも事実である。
だがサルーは人権が守られている場所で育ったので、恋愛もまた自由に学んだ。
特にサルーにとってルーシーの存在は絶大だった様だ。


何不自由なく過ごしてきたサルーだが、唯一気がかりなのが本当の家族の事だ。
「もしかすると、僕を今も探しているのでは?」
またサルーも内心は心配していた。
今の家族の手前遠慮して言葉には出さなかったが、心の奥底では離れ離れとなった家族を想うのであった。

ここからが現代的だと思えるのが、家族を探す道具としてネット環境を駆使する。
皆様もご存知の「Googleマップ」を使い、限られた条件の記憶と、電車に乗っていた距離を計算し、列車のスピードを想定すると、どの列車に乗ったのか?などと考えがまとまると、遠い祖国が身近に感じる。

それでもサルーは祖国を訪れる気になれなかったのだ。
その最大の理由は、育ての親であるスーとジョンのブライアリー夫妻を裏切る事に繋がるからだ。
もう一つ、今の自分は「何人(だれ)」なのか…
複雑な感情がサルーを襲い仕事に集中できなくなり、家族や恋人との距離感を置く様になる。


サルーの考えをとっくに察していたのが、育ての母親であるスーだ。
いつかはインドで経験した苦悩や本当の家族の事を知りたかったのだ。
何よりもスーは心の奥底からサルーを愛していた。
またスーは自ら子供を産まなかった理由を明かす。
産むのは簡単ではあるが、貧困に苦しむ子供を育てる事が私の使命だと感じていたと。
ジョンと結婚を約束した時から、二人の考えは一致していたのだ。
だからこそ、サルーを迎え入れ立派に育った姿を、本当の母親にも見てもらいたいと考えていたのだ。


母親の後ろ盾もあり、サルーは迷わずもう一人の母親と家族を探す旅に出る。

続きは鑑賞して頂きたい。
絶対に損のない映画である事は間違いない。
それに冒頭でお伝えした様に、想像以上に泣かせてくれるから必ずティッシュやハンカチをお忘れなく😂

最後にひとこと。
この作品を通して感じた事は、当たり前という概念は先進国でしか通用しないという事だ。


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