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父と工作

「ねえ、普通の家には電動ドリルなんてないよね」

「まあそうだな」

 かんから三線を作っていたときの、父と私の会話である。子供たちは大人二人がなにかやっているのを遠巻きにみていた。

 父の手元にあるのは電動ドリルだけではない。三十種類以上はある釘や螺子の類、やすり、金槌にドライバー、ナット、ノコギリ。錆びかけたように黒くくすんだ、何に使うかわからない金具たち。私には馴染みのものたちだが、普通の家にこれほどの工具は揃っていないだろう。それらは実家の階段の下が定位置で、私は父が取っ手つきの重たい工具箱を持ち出してくると、なにか面白いことが起こるのだとわくわくしたものだった。

 

 今年の夏、私はかんから三線という楽器を作ろうと計画していた。大っぴらに出掛けられないから、せめて子供に色々な体験をさせようと思ったのだ。

 かんから三線とは、胴が缶で出来た三線のこと。図書館で借りてきた工作図鑑に載っていたもので、この本の著者は入手しやすいように缶にしたのかなと思っていたのだけれど、実は第二次世界大戦後、物資の払底した沖縄で考案され、親しまれていた楽器だったと知り、ますます作りたいと思った。

 工程の最初の方に、棹を通す用の穴を缶に開けるという作業がある。私が作業をはじめたら、子供は絶対興味津々で近寄ってくるだろう。切った金属が飛び散ることもあると注意喚起されていたから、腰が重かった。父に協力を仰ぐと、あの工具箱を持ってうちの縁側にやってきた。助っ人外国人の頼もしさだ。

 父は棹にドリルで穴を開けたり、缶に穴を開けたりする作業、私は糸巻き(三線でいうところのムディ、ギターでいうとペグ)の棒を切ったり円錐形に削ったりする作業と、分担しながら進める。時々、「ここはどうやるの」「こんな感じでどうだ」という会話はあるけれど、基本的には二人、同じ場所にいるけど黙々と作業をする。そのことが、なんだかめちゃくちゃにホッとした。


 そっかあ。私はこういうのがいいんだ。


 最近、人とつながっていることがいいこと、というのが社会のなかでひとつのプリンシパルになっている気がする。人と交流するのに、私がここにいると主張するのに、会話は、言葉は必須だ。

 その風潮にのって、私もTwitterをやってみたり、ママ友とうまくつながれなくて悩んだり、noteに一応の居場所を確保して一息ついたり、してたけど。

 でも、人とつながろうとすることは果てがないと思う。フォロワー数やスキの数が気になったり、常になにかを発信しなきゃ、しかも有用ななにかを発信しなきゃみたいな気持ちに急き立てられることだってなくはない。他者は私を知るための鏡だけれど、比較してしまうことはつらい気持ちを呼んでくる。最近でこそほどほどのところで付き合えるようになってきたけれど、私にとって「つながる」というミッションは扱いづらいものだった。

 近しい人と、会話を求められない共同作業をすること。一日のほとんどがこういう時間だけだったら、ちょっと味気ないのかもしれないけれど、最近の私にはそういう時間が少なかったと気付いた。たとえば子供は工作や読書に熱中していて、私は私で手芸をしていて、たまにお互い目を合わせる。そんな時間がもっとあっていい。

 そして、私は父のことを自分が思っている以上に信頼しているのだなと思った。工学徒で、工作機械の設計製作をしていた父。何年生の自由研究の時にこれを頼んで助かったみたいな思い出はあまりないけれど、なにかが壊れた時、父に任せればなんとかなると思っていたし、組み立てが必要な雑誌の工作はいつも父に頼んだ。私は自分もそういう親になれたらいいなと思っていたし、父にかんから三線の製作を手伝ってもらうことで、私の子供にも「じいじはすごいんだ」と思ってもらいたかった。その試みはどうやら成功したみたいだ。父もどこか誇らしげだった。


 結局父にかなり手伝ってもらって、かんから三線は出来上がった。最後の仕上げをして、初めての音は父と一緒に聴いた。作り方の通りに作れば鳴らせるのは予想できたことだけれど、自分達で作ったものがそれらしい音で鳴るのは想像以上に嬉しく、爽やかな達成感があった。ちなみに三味線風な音で、夜に聴くと幽霊でも出そうな雰囲気である。

 市販の三線は、棹(トゥーイ)が何センチで、糸巻き(ムディ)の位置はここでとか決まっているんだろうけれど、缶の大きさも缶に穴を開ける位置も我流なのだから、全然その通りにはなっていないだろう。なにせ、かんから三線の工作本の通りにすらなっていないのだ。ムディもがちっと止まる角度が決まっていて、調弦しようにもあまり強くは巻けないから、男弦(一番太い弦)がドにしかならないみたいな様相である。ギターでいうところのフレットもないから、弾きながら「おまえのミはここなんだな?」と確認しながらやっていくしかないし、きっと市販の楽器以上に、弾く度調弦し直さないと音が変わっていってしまうだろう。楽器職人って偉いんだな……。

 でもその不自由さが面白い。この楽器はかんから三線という名前ではあるけれど、本当に世界に一つしかないうちの楽器なのである。

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