男性育休は平等性の確保か育児する権利か
男性育休制度が人口に膾炙して久しい。男性育休は「女性の社会進出を推し進めるための制度」と捉えられる向きが強いが、子供がある程度大きくなった今、この制度について考えてみると、どうも論点が違うのではないかと思う。
新生児期の子供の世話は確かに大変だ。睡眠や食事、時には排泄すら自分のタイミングではできないし、親世代と同居していなければ、かなり長い間、赤ん坊と二人で密室育児をすることになり、その精神的圧迫感に加え、社会との繋がりの欠如による無能力感は、大事であるはずの赤ん坊や自分の命さえないがしろにしかねない力がある。
そのため、その時期にパートナーである男性が女性と一緒に育児休暇を取得したり、逆に少しずらしたタイミングで取得したりして、一番大変な時期を乗りきろうとすることには一定の価値がある。一方で、実際に育休を取得してみたり、育休を取得しないまでも育児に協力的な夫と共同で育児をしてみたりしても、結局身体的な面、精神的な面で母親の方に負担が偏ることになりがちである。赤ん坊の指向も大きく、特に母乳を与えて育てる場合は母親のだっこでないと寝付かないといったことになりやすい。産後うつという言葉もある通り、女性のみに負担を押し付ける弊害は大きいが、一方で子供一人に対して、常に二人の大人が世話をするのはそういう意味であまり効率的ではない。休んだとしても結局あまり育児に貢献できないのなら、男性が敢えて休む意味はどこにあるのか。
「女性が社会進出するため」ということなのだろうか。確かに、企業側からすれば、男性も女性同様育休を取るようになることで、女性ばかりが長期に休職するリスクのある存在ではないということになるため、結果として女性進出は進むのかもしれない。しかし、男性が育休を取得するということは、あくまで男性の人生の問題としてとらえるべきだと考える。男性の育休取得は、女性を社会で活躍させるために男性が我慢して取得するものではなく、男性自身の、自分の子供を育てるという権利の行使として捉えられるべきである。
男性を自分の子供の育児にまるで関われなくするのは、「健常で、残業も可能な成人」のことしか想像できないサラリーマンの生産に他ならない。そしてそのことが、男性自身の生活から彩りを奪い、多様な消費者の存在を想定できないビジネスモデルしか持てない企業を生み出しているのだと考える。
育児をしたからといって、全員が新しく、素晴らしい観点を得られる訳ではない。育児は大変で理不尽なことが多く、耐えている間に過ぎ去ってしまい、教訓として残らない場合が少なくない。また、育休を取得する全ての人が、育児中に考えたアイデアを具現化できる職業・職種に就いている訳ではない。しかしながら、日本経済の行き詰まりの理由の一つに、このことがあるのではないかと思うのである。
これまで、自分以外の誰かを利するための制度、負担を分担する制度であるから利用が進まないという論を展開してきた。しかし一方で、国民の権利を十分尊重していない日本においては、「男性育休は子育てをする権利だ」と言ったとしても、虚しい詭弁に終わるのかもしれない。
とはいえ、現状に対する考えの枠組みを変えないことには、世の中が良い方に変わっていかないのも事実である。私がnoteの片隅でこのようなことを述べても、大海に小石を投げるだけに終わると思うが、なるべく遠くにまでこの石が届くとよいと考える。