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条件付きの世界と愛

 三月に読んだ本の一つに、古代からの文化の変容をざっくりまとめた本があった。それによると、ギリシア時代は大人の男と少年の愛が至高で、それ以外はカスという考え方だったらしい。今からするととんでもないけれど、当時の人からすれば、今の恋愛の方がとんでもないのかもしれない。価値観は、その渦中では絶対的なものだが、実際は可変的で流動的なものだ。

 メンタルをやられた人が、薬を飲んで不快な気持ちが消えた時、自分が今まで悩んでいたのは、脳の信号の問題であり体内の化学物質の問題だったと愕然とした、みたいなことを以前見たことがある。

 価値観も体内の化学物質と同じだ。価値観が崩れたら、恋は終わる。

 こういうものが恋愛です、人を好きになるというのはこういうことです、いい恋愛とはこうです、こういうことが幸せです。その価値観から導き出すと、私はこの人を愛しているらしい。これが「愛している」という認識の正体だ。それって本当に愛していることになりますか?

 今世界を席巻しているロマンチック・ラブ・イデオロギーは、プラトンのイデア論とキリスト教とロマン主義が結び付いた、ご都合主義の産物だそうだ。

 西欧のオリジナル・ロマンチック・ラブ・イデオロギーですら、「無償の愛(アガペー)」なんていう、信者でも正直御免こうむるような、狂気じみたものに立脚している不自然なものである。現代日本の恋愛は、「色」と「情」しかなかった江戸の日本の価値観に、この不自然なものが無理矢理継ぎ接ぎされた歪なものなのだと言われてしまうと、世界がガラガラと崩れていく感覚がある。

 あの人を好ましく思い、確かにあの人を愛していると思っていた、その気持ちの根拠はどこにもなかったのではないか。私の気持ちは、あやふやな価値観の下に成立していた、条件付きの愛だったのではないか。

 巷で言われている「条件付きの愛」でなくても、我々は皆条件付きの愛しか持ち得ないし、条件付きの世界で生きている。

 よく考えればそうだ。何も与えてくれない相手のことを信じろ、その人の愛を信じろ、その人のせいで迫害を受けたり村八分になっても、その試練こそがその人の愛であり、文句を言うなんてもってのほか、愛に殉じることこそ最大の愛の表明だなんて、相手が神でなければ、どこのDV案件ですかって感じだ。

 ロマンチック・ラブ・イデオロギーは、相手を神格化することを含む。恋人に見返りを求めることはあまり良くないと一般に思われているし、見返りを求めるのは幼い、重い女(男)、みたいな言われ方をされることがあるが、それも、このイデオロギーが悪さをしているだけではないか。愛に関する違う価値観が支配的な世界では、恋人にお返しをしない人は断罪されるべきという考えが常識かもしれない。


 価値観が変われば、愛というような、変わらないもの、尊いものとされるようなものも簡単に崩れるのだ、ということを述べたのだけど、生物学的な研究結果からも、愛は壊れうる。

 「明日、機械がヒトになる」の最後の方では、これまでの取材や考察を踏まえ、人って機械の一種なのでは、自分って何だという結論に達していた。我々は、確固たる自分を持っている積もりだが、その自分は、前もってプログラミングされたものの上に、これまでの経験による学習が加わった、極めて機械的な何かではないのか。

 そうであるならば、誰かを愛する意味というものも、良く分からなくなってくる。私が誰かを好ましいと思う感情は、私固有のものであると一般に思われている。そのかけがえのなさが、この感情が愛情である証だと、我々は思う。だが、誰かに愛情を感じるのも、何か機械的なもの(相手)に対して、機械である私が反応しているにすぎないのだとしたら、そこにかけがえのなさはあるのだろうか。私の感情や言動は、私という機械のコードや条件を把握しさえすれば、完全に予測可能な、機械的なものではないのか。……プリセットされた会話しかしない、AIとの差はもしかしたらないのではないか。ケン・リュウの「紙の動物園」にそういったテーマのSFがあり、興味深く、恐ろしく、しかし合点しながら読んだ。

 自分を機械とみなすならば、自分を変えようとすることは比較的簡単に出来るのかもしれない。私を私たらしめ、私という条件に押し込めているのは、私なのだから、強制的に新しい動作を学ばせればいい。

 「紙の動物園」の続巻、「もののあはれ」も読もうと、書店に向かった。きっと店にないだろうから、取り寄せしようと最初からカウンターに行くと、「五月二十一日に四冊入荷した記録があるから、店頭にあるはずだ」という話だった。

 しかし、店員と二人で探したけれどどこにもない。収録されているだろう話のように、亜空間に四冊が飛んでしまったのだろうか。まさか、中国SFという世間的にはマイナージャンルの本が、たった八日で四冊も売れると思えないし。

 「文庫本担当の者が今日はお休みをいただいていて」と申し訳なさそうに店員が言う。そこまで広くない書店でも、担当が違えばどこに何が置いてあるかなんて分からないだろう。

 諦めきれなくて、文庫棚、特設された「#闇のSF読書会」以外の棚も調べてみたら、「もののあはれ」が映画化するということで、店頭のかなり目立つ場所に置いてあった。本が見付かった旨を伝えて取り寄せをキャンセルし、ついでに「紙の動物園」も買った。例によって図書館で借りていたのだ。


 「条件付き」というテーマで書こうと思っていたのに、書評混じり、日記混じりの、良く分からないエッセイになってしまった。noteは楽しんで、好きに書けばいいのだろうけど、もっとエッセイらしいエッセイ、エモいエッセイを計画して書けるといいのだろうにね。

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