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何に対して怒るかで観えて来るもの「集団意識と原始脳」
今回は、久し振りに「怒り」という感情に付いて考察してみました。
ちなみに「怒り」と一言で言っても、その現れ方というのは、性格により人それぞれなのだという事を私は思います。
一番分かり易いのは「暴力(※言葉の暴力含む)」という様なものですが、形を変えると、怒りは「苛め」「虐待」「ネグレクト」と言った様なものに姿を変えたり致しますし、
性格によっては、他者ではなく自分を苛める事から生まれる「被害者意識」や「自己卑下」「自己嫌悪」「鬱」というものに形を変える事もあります。
又「悲しみ」というものも、私が一時独学で学んだ初期仏教では「怒りの変形」と言われており、
それは「自分ではどうする事も出来ないという無力感や絶望」という形を取った怒りと捉えられています。
私が思うに、同じ怒りでも「自己卑下」や「鬱」や「悲しみ」という感情は、理性を持った方達が多く持つ「他者に向けずに、自分に向けた怒り」であり、
又、何処にも怒りをぶつける事が出来ないという理不尽さから生まれる「悲しみという怒り」を持って苦しんでしまう方達というのは、「心根の優しい方達が持つ怒りの形」なのではないかという事を思います。
どちらにしても「怒り」という感情は、自他共に「多くのものを破壊してしまう凶器」にもなり得るものなので、取り扱いには充分気を付けなくてはならない感情であるという事が言えると私は思います。
ですが、時に人は「自分の人間としての尊厳を取り戻す為に怒りを持つ=誇りを失わない」という事も必要になるとも私は思っております。
ただその表現の仕方には、復讐や仕返しと言う様な悪循環のサイクルを生み出す様な形ではなく、自他共への愛=慈悲という「奥深い知恵と知性」が必要になるとも私自身は思っております。
今回の記事が、どなたかの何かの参考になれば幸いです。