~ある女の子の被爆体験記30/50~ 現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。“作った科学者、使った政治家” 止めたいと思った科学者がいたとしても。
フランクレポート
1945年6月11日、フランクレポート(『政治的・社会的問題に関する委員会報告』“Report of the Committee on Political and Social Problems”)が、シカゴ大学で原子爆弾の開発をしていた7人の科学者によって大統領諮問委員会へ提出された。この報告書は、科学者たちの長であったジェイムス・フランクの名前からとって、フランクレポートと呼ばれた。レポートがはじめに書かれていることとして、科学者たちが自らの立場の責任について述べている。彼らがマンハッタン計画という極秘の計画に参加し、「残りの人類はまだ気づいていない深刻な危機に気づいた少数の市民の立場にある」ため、次のことを提案すると書かれていた。
「核兵器を使い、世界にこの威力を明らかにすることで、今後どんなに原子爆弾の秘密を守ろうとしても、原子爆弾の知識も世界に広がってしまう。また、材料となるウランなどの独占支配をアメリカだけが行うことは不可能である。このため、アメリカが核兵器によって強い立場を保ち続けることはできないだろう。また核兵器が使用されるようになれば、その影響を防ぐ有効な手段はまだない。結局、核兵器が使われないような世界にするには、核戦争の禁止を定める国家間の国際的協定を取り決める方法だけが、戦後の核開発競争と核戦争の危険を防止できる唯一の手段となることができる」
フランクレポートには、この国際的合意の締結のために、「核兵器を世界で初めて明らかにする方法が、運命的な重要性を持つ」と書かれている。 国際的な合意を行うためにはお互いの信頼が重要に違いないが、しかし、日本に対して予告なく原子爆弾を使うことは他の国からの信頼を失うことにつながる。 それでは国際的な合意により、核兵器使用の管理ができなくなってしまうと予想している。レポートでは、無人地帯でのデモンストレーション実験を行うこと、あるいは原子爆弾を使うことなく、できるだけ長く秘匿し続けることによって、核兵器の国際的な管理システムを作り上げる重要性を述べている。
結局、シカゴの科学者たちに政府からの返信は無く、事実上、無視された。科学者の一人、ラビノウィッチは、
「私たちはまるで防音壁に囲まれていて、ワシントンに手紙を書こうが、誰かに語りかけようが何らの反応も戻ってこないのだ」
と、仲間の科学者たちと味わった無力感を表現した。その後も科学者たちは政府からの返答を待ち続け、シラードらは大統領へ宛てた署名活動などを行ったりしたが、その結果はもはや変わることがなかった。8月6日に広島、8月9日に長崎の市民の頭上へ向けて、人類初めての核兵器が投下された。当時、広島には約35万人の住民がおり、その中には中国人、台湾人、朝鮮人、韓国人、東南アジアからの留学生、アメリカ人捕虜も含まれていた。1945年の12月末までには、約14万人が死亡したと推計される。広島の爆心地から1.2km以内にいた人の50%は、原子爆弾が投下されたその日に亡くなった。長崎では、1945年の12月末までには、24万人の人口のうち7万4千人が死亡した。広島でも長崎でも、確かに生き残った人々もいた。しかし、いうまでもなく、生き残った人々は壮絶な後遺症に長年苦しむことになり、戦争が終わってもそれは終わらない彼らの戦いとなった。
また、マンハッタン計画もこれで終わったわけではなかった。むしろ、種まきが終わって収穫に至るがごとく、この先のミッションは核兵器開発国にとって非常に重要であったといえる。それが、原爆投下後の医学的な被爆統計結果である。これをまとめた研究者の中に開発者であったシラードらの名前はなく、アメリカの医師ら研究者の名前が連なった。
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