~ある女の子の被爆体験記43/50~現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。”私が5歳のときに、感じた疑問。人間ってなぜ?原爆資料館“
ここまで40日以上、毎日記事を書いてきた。その動機は、5歳の時に原爆資料館で感じた気持ちに由来する。
私が5歳のときに湧き上がった疑問
私は広島の原爆資料館へ家族と行った。熱線で人が焼かれ、階段に映った人の影。被曝後に爪に異常が起き、痛みで爪が切れずに伸ばすしかなかった長い爪。いくつもの光景に衝撃を受けたのは確かだ。
なぜ落としたの?
なぜ日本は戦争を始めたの?
なぜ人は戦争をやめられないの?
人間について、いろんなことに疑問がたくさん沸いた。よくわからないが、また来たいと思ったし、また行かないといけないと思った。
そこが始まりで、何度も原爆資料館に行った。
原爆資料館は、5歳の子供にですら、人間に疑問を抱かせ、平和のために働きたいと感じさせた。
広島までは6時間、夏に親戚の家へ行くたびに原爆資料館へ
それから、原爆資料館へは夏休みに親戚の家へ行くたびに行った。中学に入ってからは、一人で見学に行った。自然と、いつかはこのことに関わる仕事をしたいと思った。
そして、純粋に、いつかは平和のために働きたい、と思った。
平和に関係する仕事。世界に関係する仕事につきたい
初めてそう思ったのは、小学1、2年生の頃、あるいはそれ以前だったと思う。一人で、広島の原爆資料館を見学して建物から出た瞬間に、強くそう思ったのを覚えている。国連で働きたいと、小学校の卒業文集に書いた。その思いが消えたことはない。でも、実際は、国連では働かなかった。
私は、医師になっていた。
平和に関する仕事をしたいという気持ちを持ちながら、目の前の医療に従事した。50歳をすぎた。けれど、平和のために何かをしたいという思いは常に心の中にあり、今もそれが成し遂げられていないという気持ちを抱えている。
いつも、子供の頃の自分が、思い出された。あのときの女の子の「平和のために働きたい」という思いは、今の自分の思いと同じだ。純粋な気持ちだ。
伯母の広島の体験をまとめることとも、やらなければならない一つのことだったので、医師の仕事の傍ら、出版することはいまだにできていないが、原稿は個人的にまとめた。
その中に伯母の話を検証する作業を行う中で、個人的に広島についての資料を集めはじめると、医師としても、疑問や興味が湧きはじめた。また、研究者として、日本人科学者の研究発表が禁止されたという歴史的に無視できない事実を知ると、研究者たちや被曝者たちの声を、広く世の中に知ってもらいたいという欲求が沸きはじめた。
日本だけでなく、アメリカからも原爆の資料、特に医学的な資料をあつめた。ここ数年、その資料や、日本人医師の残した書籍を集め、読んだ。
その中で、貴重な統計や資料を得た。今も検討、分析している。
特に、解剖資料については、亡くなられた被爆者の方々が残した大切な資料だと感じた。その体験を世の中に話すことができないままに亡くなられたことを考えると、彼らの残した声を、言葉に直して公表したいと思った。また、医師たちが大きな負担を負いながらもなんとか解剖をして、人々を救おうとした事実を、私は多くの方々に知ってもらいたいと思った。
世界の人に、平和のために
劣化ウラン弾はまだ、禁止されておらず、これからもつかわっる恐れがある。さらに、より小型化した核兵器が開発される危険性を世界はまだ抱えている。また、一万四千発の大きな核兵器を、いまだに世界は抱えたままだ。
世界の人々に、放射線を使った新しい兵器の開発をを阻止しないと、小さな子供たちを中心に被害は起きる。核兵器を阻止して、戦争を阻止したい。世界の平和のために、同じ地球に住む私たちは、自分たちの弱さをコントロールして、人々や子供たちを戦争から守らなくてはならない。そのために、いま、私は、力を尽くしたいと思っている。
純粋に、平和のために、やりたいのである。