思い切って欠点を裏返してみればいい
「欠けたものがあるやつはいい」「欠けていても周りを見て普通に振舞おうとしているお前たちのようなやつらだ」みたいなことを【推しの子】に出てくる劇団ララライの関係者が言っていたのを何かの拍子に思い出しました。これはアイという母親を目の前で殺されてしまったアクア、両親が心中し施設で育った姫川大輝に対しての言葉です。
生まれつきでも後天的にでも、どこにも欠けていない存在というのはいません。だけど人よりも特に恵まれていない環境で生きてきた人というのは必ずいて、おそらくはその欠けている部分を隠すようにして生きている人が多いのではないだろうかと思うのです。
最近は「自分を受け入れるように」と言われています。自己肯定感の低い人、自分を認められない人、いつまでも自分を責めている人などへの言葉としてよく見かけます。不完全な自分でも大丈夫、それでいいんだという雰囲気のメッセージでしょう。それでも私には何だか自己正当化の言葉のように思えてずっと違和感がありました。
この言葉が広まる前から「自分はこういうことをしてしまった。だけどそれが自分だから」という言い訳を常にしているような人が身近にいた経験があったからです。自分のしたことを一切反省せず、開き直って謝りもしない人でした。だから絶対に同じような人間になりたくなかったですし、そのことを増長するような考え方のように感じていました。
例えば私は精神的に打たれ弱かったりする面があるのですが、それは自分にとって恥ずかしいことで、できるだけ見せてはいけないと思ってきました。実際に見られた時に引かれることが多かったからです。そんなことで悩んでいたところ、YouTubeにて見かけたコメントに気になるものがありました。「倒錯的で危うい魅力がある」と。
ああ、と何だかすごく納得するものがありました。同時に日本語ってすごいなとも思いました。そういえば欠点を何とかして長所のように言い換えるといいとう方法があります。例えば「考えすぎる面がある」を「物事をよく考える」など。精神的に弱いというのはまさに「危うい魅力」というように言い換えてもいいのではないかと、初めてそう思えたのです。
蓼食う虫も好き好きという言葉がありますが、世の中にはいろんな人がいます。私の苦手なものでももちろん好きな人がいたりしますし、大多数に嫌われていても少数の熱狂的なファンがいる人がいることだってあります。
欠けているものを持って生まれたことは仕方がありません。自分が一切悪くない理不尽な出来事による影響であったり、今からはどうにもできないもの、手の届かないものは誰にでもあるのです。それはもしかしたら「ああすれば」「こうだったらよかったのに」といつまでも思うより、そう受け入れたほうがいいような気がしてきました。
私は危うい存在なのでしょう。でもそれでもいいんだと思います。魅力的だととらえてくれる人がいるかもしれないですし、実際に自分を好意的に見てくれる人はいます。人にはいろんな魅力があります。自分がずっと恥じてきた欠点の裏側を表している言葉が見つかって良かったです。
欠けているものがあることは決して悪いことではありません。むしろ全く欠けていない完全無欠な人なんてどこにもいないのです。欠けているからこそ埋めようと努力することも、逆にその欠けている部分を生かすことだってできます。
大切なのは自分自身のとらえ方をどうするかなのでしょう。