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ロックが自殺しちゃう理由はミュージシャンがサウンドにこだわって音楽がマスメディアの一形態になっちゃうからなんだってさ
また記事を書きました。今回は「サウンド」って観念が気になってしまったよ〜ぃって話でございます。
ワイとサウンドとの馴れ初め……というと変な感じですが、ワイがサウンドって言葉に対して「あれ?この言葉ってフツーじゃないぞ?」と感じたきっかけになったのは、思想史学者・田中純って人が書いた『政治の季節』に収録されている「自殺するロックンロール」の論文を読んでる最中のことでした。
その中で「生理的感覚と情動を喚起するサウンドは、象徴的な意味のコードと対立する、現実の直接的表出である。」ってくだりがあるんですわ。それでどうやらここで登場している「サウンド」の観念は元を辿るとジミ・ヘンドリックスに行き着くと書いてあるんですよ。
ジミヘンって言うと「ギターの神様」だのと言われているギタリストですね。ワイはジミヘンが表舞台に出ることになった音楽アルバム『ARE YOU EXPERIENCED?』が手元にあったので、そのライナーノーツと睨めっこしながらジミヘンにとってのサウンドが何だったのかを検討したですな。
以上の話がまとまったのが以下の記事ですわい。
ジミヘンについて首を突っ込んでみましたが、結局は大元の『政治の季節』に立ち返りまして、サウンドはサウンドでもロック・サウンドの方に目を向けたり、そのロック・サウンドが実はマスメディア的なものなのだ〜ってアイデアに行き着いたりなんかしてね。
途中経過は省きますが、ロックがマスメディアの一種になるそもそもの原因が、ロック・ミュージシャンがサウンドにこだわることであって、そのサウンドを求めてオーディエンスが集まってくるってところにあるんですな。
──で、マスメディアになる運命を抱いたロックは自殺する宿命にある、なんて話になったりするわけです。
以下が要約になりますわん。
・田中純の『政治の美学』に収録された「自殺するロックンロール」という論文には「サウンド」という観念が取りあげられている。サウンドとは意味との象徴的関係を経由することなしに現実的表出としての生理的感覚と情動──つまりは “エモさ” を喚起し、そこに照らしてメッセージを解読するであろう “自我という鎧” を砕いてしまうものなのだ。
・メディア評論家であるフリードリヒ・キットラーを援用することで取りあげられる「サウンド」は、伝説的ギタリストであるジミ・ヘンドリックスに由来するという。ここでサウンドは「ロックのサウンド」というニュアンスを帯びる。ロックはオーディエンスの体さえひとつのメディアと化し、揺さぶりを掛けることによって “じかに” 感覚へと訴えかける。
・大衆の意識的な常識を対象にしながら大衆の無意識的な情動を対象にするロックはマスメディアの一形態である。このことは常識に対する反抗という形で権力を持たない人々のメディアになることが本義であったロックを自殺に追い込む。なぜなら、ロック・サウンドの働きは身を委ねる快楽をもたらすと共に、個性を抑圧する常識を形成する営みにもなるから。
読んだらロック・サウンドについての理解が深まるんじゃないかな。ロックがマスメディアなんだぜ〜って話も、ロック・ミュージックを聴く人にとっても聴かない人にとっても、ちょっとした気づきになるはず!
読んでみてね!