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【読書ノート#7】「生き物の死にざま」

ひさびさに動物園行った帰り、動物についてつらつらと思いながら、ふらっと寄った書店で見つけた一冊です。こういう偶然の出会いはリアル書店ならではの醍醐味で大事にしたいところ。以前の記事で書いたように、自分がその本を受け入れる状態(構え)になっているかが読書の大事なポイントだと思うので。

本の簡単な紹介

29種類の生き物(昆虫、哺乳類など)について、一種につき数ページで紹介されておりさくっと読めます。他の人に言いたくなる生き物の豆知識も書かれています(シロアリは古い昆虫で、アリは比較的新しい昆虫とか。蚊が血を吸うのはメスだけとか)が、この本の大きな特徴はエッセイ風に書かれており、著者の人生観・生命観が色濃く反映されているところでしょう。

「ほー、初めて知った」と豆知識に感心しつつ、生き物の儚さに思いを馳せつつ、しかし自分の生き方が紹介される生き物とどれほど違うのだろう?と考えながら読みました。本のタイトルは「死にざま」となっていますが、生物ごとに誕生から死までが紹介されてます。「どのように死ぬか」は「どのように生きるか」。死にざまとは生きざまの鏡なのだと気付かされます。

面白かったポイントと感想

以下、個人的に面白いと感じた部分とそれに対する思いをつらつら書いてきます。

別視点。蚊を思う。

エッセイ風に書かれることで、紹介される生き物に感情移入しやすくなります。個人的には「アカイエカ(蚊)」の回が面白かった。生物であれ他人であれ、自分以外の視点に思いを馳せることは人を優しく強くさせる気がします。

もちろん生き物は自身の環世界を生きており、ここで紹介されたように見え・感じているわけではないはず。あくまで擬人化して解釈した人からの視点にすぎないのですが、それをいえば「人の立場に立って考える」も所詮は自分からの視点でしかないですね。それでも「自分から外れた視点を持とう・見よう」という姿勢を持っていると持っていないのは全く異なる生き方になるのではないでしょうか。

とりあえず蚊に血くらいは飲ませてあげようかな、という気にはなります笑

生きることに「意味」はない。

これは私の人生観ですが、著者も同じ考えのように感じます。そもそも「意味」とは目標に対して作られるもの。テストで良い点をとる目標のため、勉強することは「意味」があります。しかし生きることそれ自体に目標はありません。生き物を見ればわかるように、彼らはプログラムされた通り生きそして死ぬ。そこに目標はないのです。

繁殖が目標ではないか?と思うかもですが、それは生きた結果であり、繁殖が目標で生きているわけではないでしょう。ドーキンスの「利己的な遺伝子」は有名ですが、刺激的な名前とは裏腹に、本を読むと彼は遺伝子に人格など認めてないです。

たとえば、たくさんの種類の木の葉を川の上流から流してみましょう。引っかかりやすい形をした木の葉は下流まで辿り着かず、流れやすい葉だけが残ります。葉→生物、川→環境と時の流れ、ですね。自然の摂理に従い、生き残りやすい生物だけが子孫を残し生き残ります。そこに人格や目標はないんです。

頭でっかちになった人間は「生きる意味がない」ことに耐えきれず宗教を作ったのでしょう。神様を信じている人にとっては「天国に行けること」が目標になり、人生に「意味」を持てるようになります。しかし「神が死んだ」近代以降、多くの人にとって宗教は心の拠り所ではなくなりました。

ではどうするのか?「人生に意味を求める」ことが間違いだと気づくことではないかなぁと思ってます。意味は理性の作り出した妄想でしかない。生き物は、ただ生きただ死ぬだけです。当然人間も。「意味」ではなく「生きること」に集中すれば良い。そのような観点に立てば、生き物から多くを学べるでしょう。前回の記事も参考になるかもです。

死ぬこと。輪廻転生。

我々の常識からすると生き物とは「老いて死ぬ」ものです。しかし生命の祖である単細胞生物は(分裂して子孫を残すので)老いて死ぬことはない。つまり老いることの方が不自然なのです。著者に指摘され、目から鱗でした。スティーブ・ジョブスの有名なスピーチでも「Death is the best invention of life」という一節がありますが、死は発明されたものだったんですね。

多くの生物にとって自分の死と次世代の生は同時に起こります。新しい環境に適応するため、古い世代は死に、新しい世代へ環境を譲る。しかもただ譲るだけではないのです。虫の中には、交尾後に雄が雌に食べられたり、孵化した子供が母親を食べたりというケースがある。鮭は繁殖後にその場で力尽きますが、その体が微生物に分解されることで川の栄養価を高め、それが生まれてくる子供の生きる糧となります。

有機物(炭素や窒素)の流れという観点で見ると、直接的であれ・間接的であれ、古い世代の体は新しい世代へ受け継がれているのです。これが本当の輪廻転生なのかもしれません。

子育て。強さ。

これも目から鱗だったんですが、「子育て」は強い種に許された特権だそうです。なぜなら弱い種の場合、弱肉強食の自然界では、親子もろとも食べられてしまうから。強くなければ守ることはできない。人間社会においても通用する普遍的な法則ですね。願わくは手に入れた強さは守るためだけに使いたい。

人間性。人間であること。

なんか身も蓋もないことばかり書いてる気がします。。人間も生き物であることを忘れず、迷ったときは生き物から学ぶ姿勢は大事だと思います。しかし一方で、人間という種は自らが死ぬことを知っている唯一の種でもあります。生き物の一員であることは忘れちゃダメだけど、人間であることの矜持もまた持つべきです。

生命の世界は効率性で粛々と進捗します。色々な種がばら撒かれ、環境に合った少数の種が生き残り大多数の種は絶える。さらに弱肉強食の自然界は常に死と隣り合わせです。いまこの瞬間死んでも何も不思議はないのです。この点だけからも、単純に自然界を手本にすべきだという考えはあまりに安易だとわかります。しかし歴史を振り返ると優生学がもてはやされた時期もありました。また「安心をお金で買う」といった事を平気で言える国があったりしますね。通りを一本外れたら命の危険があるって、ここはジャングルか?って話です。

人間が人間たる所以、「人間性」(の一部)は自然のプログラムへの抗いではないでしょうか。体に不自由な人やマイノリティが活き活きと生活できたり、生産者ではなくなった高齢者が生活できたり。実際、本当に貧しかった時代にはこれらの人に生きる余地はありませんでした。

「効率」ばかりを追求するのは人間であることを自らやめているのではないかという気さえします。人間性を考える上で「非効率」はキーワードの一つでしょう。

ミノムシと動物園。

ミノムシのメスはほとんど蓑から出ることなく一生を終えるそうです。著者はしかし人間も大差なのではないか、と問います。難しいですね。ミノムシも人間も環世界に囚われているという意味では同じでしょう。しかしやはり私は違うと思います。なぜなら人には想像力があるから。

人間は自らの死や、宇宙の広さや、過去や未来に思いを馳せることができる。その想像力がときに人を苦しめることにはなりますが、それが自然のプログラムから抜け出す大事な力であるのも間違いないでしょう。

さて冒頭でも書いた通り、久しぶりに動物園に行きました。小さいころは無邪気に楽しんでましたが、いま狭い檻の中で窮屈そうに行ったり来たりしてる動物を見ると、人間のエゴでこんな事して良いのかなぁ、、という疑問が出てきます。

何のための生なのかという問いにもつながりますね。動物園の中は自然界より安全ですし餓死する心配もありません。病気になれば治療だってしてくれるでしょう。しかしそれが生き物の自由を奪って良いのか、そもそも生き物に自由という概念を適用すべきなのか。

ダメなことしてる気はするのですが、やはり動物園がなくなったら寂しいですよね。動物たちにも人間たちにもハッピーなスタイルってないのだろうか。無責任な発言になっちゃいますが、想像力を働かせながら、生物の一員として、しかし人間として考えながら前に進めると良いなぁと思ってます。

↓カバは最恐の動物とも言われてますが、飼育員さんが水を撒いてると「歯磨きしてほしー」と口を大きく開けてました。気持ちよさそうですね。めちゃめちゃ可愛い。。


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