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教育とは何なのかを「クリシュナムルティの教育原論」を読んで考える

これまでに読んで衝撃を受けた本はいくつもある.その中に,思わず正座して読んだ本がいくつかある.そのひとつがこの「クリシュナムルティの教育原論―心の砂漠化を防ぐために」だ.大学の一教育者として,改めて自分の不明を恥じるばかりで,自分なんかが教師を名乗っていてよいのかと憂慮せざるをえない.いや,教師の務めを果たすべく,精進するほかないと思わされる.

ジッドウ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti),「クリシュナムルティの教育原論―心の砂漠化を防ぐために」,コスモスライブラリー,2007

先日,「何のために生きているのか,大学で学んでいるのかと問うクリシュナムルティの講話」という記事で,1984年2月7日にインド工科大学(IIT)で行われたジッドゥ・クリシュナムルティの講話を紹介した.本書「クリシュナムルティの教育原論―心の砂漠化を防ぐために」には,その講話も含めて,クリシュナムルティの教育に対する姿勢がまとめられている.

本書「クリシュナムルティの教育原論」において,クリシュナムルティは現代の教育を全否定する.それは完全に失敗したと.確かに,科学技術は大いに発展し,先進国では高等教育を受けた人々が贅沢な暮らしを謳歌し,地球を破壊し尽くして余りある兵器を作り出した.しかし,争いや戦争が絶えず,貧困がはびこっている.別に遠い外国に思いを馳せるまでもない.すぐ近くに,悲惨な現実に直面している人達がいる.そのような現実にまるで気付かないかのように振る舞う利己主義な人間を大量生産する教育.そんな教育が正しいはずがない.学校教育だけではない.家庭での教育も,社会での教育も,同じことだ.

現代の教育はまったくの失敗である.なぜならそれは技術を過度に強調してきたからである.技術を過度に強調することによってわれわれは人間を駄目にしている.人生を理解せず,思考と願望の動き・働きについての包括的知覚を持たぬまま能力を培い,能率を向上させることは,われわれをますます冷酷にするだけであり,それは戦争を引き起こし,われわれの物質的安定を危うくすることにつながる.
世間的な意味で成功している学校は,教育施設としてはしばしば失敗である.何百人もの児童が一緒に教育されている大きな,繁盛している施設は,それに付随するすべての誇示および成功と相まって,銀行員や敏腕販売員,産業資本家,人民委員,あるいは専門的・技術的には有能だが浅薄な人々を輩出させることはできる.が,望みはもっぱら,小さな学校だけがその出現の助けとなりうる統合した個人にある.それゆえ,大きな施設で最新最良の方式を実践するよりも,限られた数の男女子生徒と正しい種類の教育者で運営される学校を持つ方がずっと重要なのである.
教育の目的は単なる学者,技術者,求職者ではなく,恐怖から自由な統合した男女を生み出すことである.なぜなら,そのような人間同士の間にのみ,永続的な平和がありうるからである.

そもそも人間はどのように生きるべきなのか.人間が人間らしくあるための自由とは何なのか.

「勉強しなさい」と子供に説く親や教師.「良い大学に入りなさい」と子供に説く親や教師.なぜ勉強しないといけないのか.なぜ良い大学に入らないといけないのか.結局,すべては安穏とした人生を手に入れるためではないか.なぜ,安穏とした人生を手に入れたいのか.安定や安心を求める心は,恐怖や不安に突き動かされ,天下り的な社会の規則に自分を縛り付ける.無自覚にせよ,親や教師,なんとか教徒やなんとか民族,そういったものが縛り付けられているのと同じものに,子供たちを縛り付ける.そうしておけば安全だからだ.属する集団や社会から批判されないからだ.それが自由な人間だろうか.そんなわけはない.心が鎖に繋がれた奴隷だろう.現代の教育は,そんな奴隷を量産しているにすぎない.

子供の精神にただ単に既存の価値を植え付け,彼を理想に従わせることは,彼の英知を覚醒させることなしに彼を条件づけることである.
正しい教育は,児童をありのままに理解すること-彼がそうあるべきだとわれわれが考える理想を彼に押しつけずにそうすること-にある.彼を理想の枠内に閉じ込めることは,彼に適合するように強いることであり,それは恐怖を生み出し,そして現にあるがままの彼とあるべき彼との間の絶え間ない葛藤を彼の中に引き起こす.
理想は都合のよい逃避であり,そしてそれに従う教師は,生徒たちを理解し,英知をもって彼らを扱うことができない.なぜなら彼にとっては,未来の理想,あるべきもの,の方が現在の子供よりずっと重要だからである.理想の追求は愛を締め出し,そして愛なしには人間のいかなる問題も解決できない.
われわれ自身が条件づけられていながら,正しい教育はどうあるべきかを議論することは,まったくの無駄である.
規律の危険性の一つは,方式の中に閉じ込められている人間より,方式の方が重要になるということである.すると規律が愛にとって代わる.われわれが規律に固執するのは,われわれの心が空虚だからである.
成功がわれわれの目標であるかぎり,われわれは恐怖を免れることはできない.なぜなら,成功願望は必然的に失敗の恐怖を生み出すからである.
権威に従うことは英知を拒むことである.権威を受け入れることは支配に屈し,自分自身をいずれかの個人,集団またはイデオロギ--宗教的なそれであれ,政治的なそれであれ-に服従させることである.そして権威へのこの服従は,英知だけではなく,個人の自由をも否定することである.
あるべきものを追求すること,原理原則,理想に固執すること,目標を立てること-こういったすべては多くの錯覚や幻想に行き着く.

そのような状態から解放され,真に自由な人間になるためには,まず,自分を縛り付けているものを自覚しなければならない.自分の内面に向き合って,自分が何者であるのかを知らなければならない.自分自身を知れとはそういうことなのだろう.そして,その手助けをするのが教育なのだろう.

正しい教育は,単に生徒が彼の能力を伸ばすだけではなく,彼自身の最高の関心事を理解するのを助けるべきである.戦争,破壊,不幸によってずたずたに引き裂かれた世界に,人は新しい社会秩序を築き,今までのそれとは違う生き方をもたらすことができなければならない.
安泰でありたい,安全無事でありたいというわれわれの願望の結果である恐怖は,われわれを適合させ,模倣させ,支配に従わせ,ゆえにそれは創造的な生き方を妨げる.創造的に生きることは自由の中で生きることであり,それは恐怖なしにあることである.

クリシュナムルティは,インド独立の前後に,インドのみならず世界中で活躍した宗教家であり,教育者である.数多くの講演や著作を通して,人間の覚醒を促し続けた.さらに,理想とする教育を実現するために,各国に多くの学校を設立してもいる.

人間が生きるとき,教育が果たすべき役割は何であるのか,教師が果たすべき役割は何であるのか.それらを考えさせられる.

新渡戸稲造は「武士道」で次のように述べている.

知能ではなく品格が,頭ではなく魂が,骨折って発達させる素材として,教師によって選ばれるとき,教師の職業は聖なる性格をおびる.

マックス・ウェーバーは「職業としての学問」で「徳育上の功績」について述べている.

有能な教師たる者がその任務の第一とするべきものは,その弟子たちが都合の悪い事実,例えば自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを承認することを教えることである.そして,誰にでもー例えば私にでもーその党派的意見にとっては甚だ都合の悪い事実というものがあるのである.私の考えでは,もし大学で教鞭をとるものがその聴講者たちを導いてこうした習慣をつけるようにさせたならば,彼の功績は単なる知育上のそれ以上のものとなるであろう.私は敢えてこのような功績をいいあらわすのに「徳育上の功績」という言葉をもってしよう.

本書「クリシュナムルティの教育原論」は,スラスラと読めるような本ではない.巷に溢れる軽薄な教育本や勉強本とは次元が異なる.

ジッドウ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti),「クリシュナムルティの教育原論―心の砂漠化を防ぐために」,コスモスライブラリー,2007

ちなみに,思わず正座して読んだ本の筆頭は「修身教授録」だ.かりにも教職にある人なら読んでおくことを強烈にお勧めしたい.

© 2020 Manabu KANO.

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