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料理と執筆

 毎日note、週1note、とにかく短いスパンでnote記事(特にもエッセイ)を投稿している皆さん、ネタ探しってどうしてますか?どれくらいの時間をかけて記事にしていますか?

 私は常にメモ帳を持ち歩いていまして、何かネタになりそうな出来事に遭遇すると、明石○さんま風に『それいただき!!』と、心の中ではペン先をペロリと舐めながら書き残したり、noteの下書きとして保存しておいたりしています。

 しかし、後々にネタに困った時にメモ帳や下書きを読み返すと、どうして私がこの出来事をメモをしたのか分からないのです。あの時の出来事をメモをして一体何に気づきを得たのか、何を読者に伝えたかったのか、確かに書いた時は頭の中で起承転結を考えて『これは良い記事になるかも知れないぞ』とドヤ顔だったハズなのに思い出せません。

 何か感情を動かされたからメモをしたのでしょうが、その心のムーブメントを文字に出来ないとただの日記です。


 話は変わりますが、日記とエッセイの違いって分かりますか?
 例文を作ります。

 夕飯にカレーライスを作る。
 お昼にテレビでカレーにコンソメを隠し味として入れると美味しくなるらしいので入れてみた。
 スパイシーさが増して美味しい。私は嬉しかった。

 これだとエッセイでは無く日記です。

 夕飯はカレーにする事にした。
 お昼ご飯を食べながら見ていたテレビでカレーにコンソメを隠し味として入れると美味しくなると言っていたからだ。

 早速試食をする。スパイシーさが増して美味しい。
 私は鼻歌を歌いながら鍋をゆっくりとかき混ぜる。

 台所の小窓から差し込む西日がコンロ上の鍋を優しく照らしていた。

 私の作った例文なので拙い部分はありますが、これでエッセイになります。

 エッセイというのは“いかにその時の感情を言語化出来るか”・“その時の感情をストレートな表現からいかに遠ざけるか”がポイントです。

 出来事だけをメモに残しても、楽しかった、悲しかった、嬉しかった、腹が立った、というのは覚えているものですし、日記を書くだけならばそれで充分です。しかし、エッセイを書くのであれば、嬉しかった私が何をしたか、腹が立った時に見えた景色はどう見えたかという、情景や背景まで書かなくては成立しません。

 例文で言えば“嬉しかった”という表現が“鼻歌を歌いながら”に当てはまりますし、それを装飾するのが“鍋を照らした西日”になります。


 このように、情景や感情がどう見えたか或いは動いたかと言うのは、その一瞬一瞬の気持ちのゆらめきとも言えるのでメモには残しづらいのですが、後々にnote記事に昇華するならば不可欠な存在です。その一瞬の感情を心に凍結保存しておけるかどうかが重要になってきます。

 しかし、『この出来事はネタになるぞ』と思って、心に冷凍保存しておいていざ数週間後に記事として消化しようと取り出しても、もう腐り切ってしまっていて、どこから切り開いても何じゃこりゃって状態なんですよね。

 その時の感情はナマモノと一緒で放っておくと必ず腐ります。メモに書いた時は『良いネタだと』思っても、書かない内に、下書きに残している内に、確かにそこに一緒にあったハズの風景や感情は掠れてしまいます。そうして、記事として書ききれず腐ってしまった下書きやメモが私にはたくさんあるのです。

 逆に、いくら上質なネタを心に思い留めておいても、ボキャブラリーに乏しいが故に表現の仕方が分からず、記事として昇華出来ないというパターンもあると思います。


 私が週1noteを書いていて行き詰まった時や、記事にならなかったメモ書きを見ると

執筆と料理って似ているな

と、強く認識させられます。

 例えるなら、私の心が感情の冷蔵庫で、語彙力や文章力は調味料や調理器具です。これらを頭のキッチンで執筆という調理が出来るのは私だけなのです。そうして最後に読み手の方に記事として料理を提供するというイメージでしょうか。

 とんちんかな味付けをしないように、食事ではバカ舌な私ですが、文章では最低限読み手の皆様に最後まで美味しくいただけるものを提供出来るようにありたいものです。

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