たくさん眠れば元気になれるという話でもないからこの世界は難しい。 朝6時、目を覚ますも身体が動かない。布団に入ったのは22時。平均睡眠時間、というかいつもこのくらい寝ている時間は6時間程度で、5時間だとちょっとつらい、7時間だとしっかりぐっすり、みたいな大体の目安はあるにせよそれが毎日的確に適応してくれるとは限らない。 昨日からなんとなく予感をしていたが、やっぱりだった。 無理やり近くにある椅子を頼りに起こしてみるけど重力に吸い込まれるようにしてばたん、元の体勢に戻る。 ベ
17時というのは本当によくない。 身体にまとわりつく重たい鉛を、知ってるよ、いるのはわかってるよと思いつつも全力で知らないふりをして右足を前に、左足を前に、なんとか歩みを進める。 あとちょっとあとちょっと。ちょっとってどこに???わたしが歩く理由なんてどこにもないのに???家に帰るため、帰るだけのためにこんなにギリギリの状態で、そんなに頑張らないといけないことかしら。わたしを待っている人なんてどこにもいないのに。果たすべき役割なんて特にないのに? 街中で「これ」にこられると
ことわっておくが、これは憂鬱な酒場の日記ではなく、憂鬱なわたしが酒場に行く日記である。 酒場自体が憂鬱であってはならない。 酒場で憂鬱になることはあっても、憂鬱な酒場というものが存在すると口に出して、みとめてしまってはいけない。 たとえ憂鬱な酒場が存在していたとしても、その仄暗さに気がつかないふりをするのがお酒に対する礼儀であると思っている。 思えば人生のほとんどが憂鬱の中にある。 やりたくもないのになぜか手を上げてしまい、そのままジャンケンを勝ち抜き、大袈裟なパニエ
目の前を横切っていく人たちの肩に、コートの裾に、フードに、雪の結晶が落ちる。 雪はまとわりついたその人の体温に溶けてすっかり消えてなくなる。 もともと存在なんてしてなかったみたいに。 雪が降っている。 車は降りしきる雪に押されることなく自分のペースで突き進んでいる。 昨日と今日の境界線はいつも曖昧だけど、雪が降っていると昨日と今日が別の場所にあることを理解することができる。 昨日と今日が別物であることと昨日と今日がつながっていることが同時に発生している毎日は、わたしの存
第一印象がやたらと良すぎるせいで不必要な苦労が上乗せされていると思う。 今日、仕事の関係の人とたまたま街で遭遇した。 その人とはじめて会ったのは12月のことで、まあつまりは面接。 「いい雰囲気を持っている」と言われ、一緒に帰ろうと誘われ、自分のこれまでをすっかり話してくれた。 その後も少人数の仕事に初心者ながら抜擢されたり、いいポジションが回ってきたりとわかりやすく気に入られていた。 そう、このままいっていれば。 このままいっていればわたしの人生はいつだってもう少し楽な
まあ、朝に書いて帰りの電車でも書くくらいがちょうどよさそう(また書ききれなかった) そもそも朝の混んでいる電車の中で文章をかくなんてこと、到底できないよ、文章をかくなんて本当に恥ずかしいことなんだから。 ところで、はさみがすきだ。 はさみの造形が好きだとか語感が好きだとかではなくて、はさみを使って作業をすることが心から好きだ。没頭できて気持ちがいい。 紙に刃がのみこまれる瞬間。思うのだけどあれは紙が切られているというより紙が受け流しているにすぎないのではないか。 紙がかたち
セブンティーンアイスのキャラメルリボンは、しっぽの先がおいしい。 だれかがなにかを話している時、それがどれだけしょうもないことであっても「しょうもな」と吐き捨てるようにだけはなりたくないと思う。ならないでいようと思う。 そのひとを尊重するとかそんな高尚な話ではなくて、ただ醜いと思う。自分の言いたいことだけをぶつけて、それで許されてきたのだなと羨ましさからくる妬ましさもあるのかもしれないけど。 まあ、というか、この世界にしょうもなくないことなんてほとんど無いのだし。 朝書い
天気がいいと気持ちが跳ねる。 天気がいい、いまのわたしにとっての天気がいいは晴れの日であるけども、思い返してみると幼少期の天気がいい、は雨の日のことをさしていた。 空から水が落ちてくることがおもしろくて仕方がなかった。雨の粒が傘のひふをすべって奏でる音楽が好きだった。 雨の日は外に出なくても良いと言われているようで、ほんとうは家でじっとしていたいわたしは重たく深い安心に包まれた。 そしてなにより、雨の音がどこでつけたかもわからない心のかすり傷たちをゆっくり治してくれるよう
なにかいやなことをされたとき(でも養ってもらってるし)があると不便 相手に対して罪悪感があるから本当にこれは怒りなのか、わがままなのではないのか、と自問自答を繰り返して、そのあいだに怒るタイミングを逃し、アンガーマネジメントなんてものは嘘、さっきより煮えたぎった怒りの感情を自分のなかに押し込めて、ぶくぶく泡が小さくなるまで深呼吸をくりかえして堪える。 でもやっぱり、あとに残るのは自分勝手だったなあの自責の念。 甘えているのだ。相手にも世界にも。 だからといって怒りの感情
ごきげんな一日だった 朝の電車は苦痛だけど、のぼりたての太陽が川面に当たってきらきら燦爛しているのはどんなイルミネーションよりもきれい
買い物が苦手、というより物欲があまり無い。 ものを手に入れたということの喜び、気持ちよさみたいなものが、10代の頃は確かに少しはあったはずなのに今はすっかりだめである。 お金を使うのが嫌なわけではない。むしろ財布の紐は緩いほうだと思う。 「優先順位が低いだけじゃない?」 母は言う。 「そう思い込もうとしているだけじゃない?」 祖母は言う。 「欲が死んできたんじゃない?歳だよ」 友人は言う。 どれも正解で、どれも不正解であると思う。 わたしがわたしを制御していたとして、自分を
「今日は一日がんばったからさ、ごほうびにハーゲンダッツを買って帰ったよ」 通りがかった川に話しかけた。 川に話しかけた場合、水の粒子に向けているのか、川という概念そのものに話しかけているのか、川を火とまとまりの存在として認識しているのか、どれかわからなくなったけど、わたしが話しかけた時の川はそれを考えている時にはもうどこにもなくて、でもそれは人に話しているということと変わらない事象であるなとも思うわけです。 知らない人に話しかけることと川に話しかけることはつまりはイコールって
ずっと大好きで待ち望んでいたひとたちのライブに行った。 純度100パーセント、生搾りの幸せしかなくて、この気持ちをこのまま冷凍保存して辛い時にあたためて食べたいと思うほどに心の底からたのしかった。 ずっとしんどくて、苦しくて、そしたらある日なんのやる気も起きなくなって、ただ呆然と一日を消費して、出口はおろか少しの光さえ漏れてこなかったここ数ヶ月だったけど今日わたしははじめて自分のために思いっきり泣く事ができた。 泣いても泣いても次から次へと涙が込み上げて息継ぎさえ忘れて泣い
はなまるをもらった だからわたしは今日、だれでもないわたしのために泣いた わたしのために流した涙はすっきりと澄んでいて、肌の上を悠々とすべり、そんなの元からなかったみたいに音もなく消えていった
口内炎が治らない。 噛み跡からできあがった口内炎。 唇の裏のあたりにできた口内炎。 笑うと前歯に引っかかる口内炎。 もう一週間以上は前なのに、ちゃんとバランスのいい食事をしているはずなのに。 口内炎は不幸だ。 一度できてしまうと、その存在が無い快適な口内のことを思い出せなくなるし、周りから気付かれない。 「口内炎できちゃったんだよね」 と言うと栄養ちゃんと摂れてないんですよね、と体調管理下手の自己申告をしているみたいだし、清潔感がない。 それでも風呂の時だけ我慢すればいい膝
ままの事が好きだしままが死ぬことを考えられない ママが死ぬときはわたしが死ぬ時だ かなしい 誰だかわからない よっぱってない連絡なんて取れない なんではtらくことになってるんだ?+わからない ママたちとずっといたい 悲しい お金それまでに 払う 怖い 怖い 怖い 悲しい 悲しい 悲しい 寂しい