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【善悪とは】 NTLive 「善き人」

何をやらされようと、私たちは、(本当は)善良な人間よ

自分の中にはいつだって「善でありたい」自分と、「周りの声に流されてしまう」自分がいる。悪人では無いかも知れないけれど、善とは言い切れない、弱い自分。何ごともなければ、善人でいられるのだろうが、何かがあると、その弱さがむくむくと首をもたげてくる。

遠藤周作の小説「沈黙」のキチジローを思い出した。彼だって、時代が違えば周りに対して「善き」こともする、ごく普通の人だったかも知れないのだ。

第二次世界大戦前夜のドイツ。じわじわと国が狂気に陥るのを俯瞰できるのは、我々が後世に生きてるからだ。当時、本作の主人公のように「まさか、そんな」とヒットラーの台頭が意味する未来から顔を背けてきた人は、きっといただろう。ユダヤ人狩りなんて、そんな大それたこと、できるはずがない、と。その兆しが増えていっても、直面することが恐ろしくて目を背け続け、自分に言い訳をし続けた人も。

その中に、私もいたかも知れない。そう思ったらなんだか泣けてきた。あの涙は、一体何の涙だろう。不甲斐なさ?自分に対する絶望?

君たちの良心に反する命令はしない

そんな言葉にすがりつき、焚書を命じられても「大学生は本ばかり読んでいてはダメだ、体を使って経験しなければ、ということの象徴なのだ」と「明らかにおかしいこと」を正当化する。そのうち、自己正当化しなければならない事態は、どんどん積み重なっていく。

苦しかった。見て良かったと思うけれど、苦しかった。今も苦しい。

もし同じことがまた起きた時、私は自分の良心に対して、真摯であり続けられるだろうか。口をつぐんでいるだけの加害者に成り果ててしまわないだろうか。

第四の壁を破り、こちらに向かって語りかけてくる主人公に、常にそう問いかけられているようだった。

3人芝居と言えば「リーマントリロジー」が記憶に新しいけれど、本作もまた、3人で(正確には主人公以外の2名)いくつもの役を演じ分けていく。「リーマン」よりもステージングがシンプルであるが故に、役者の技量に対する依存度が高い。

「本物の楽隊」が奏でる音楽を聴きながら、どこまでが主人公の幻聴で、誰がどの時点まで実際に存在していたのだろう、などつらつらと考えながら、お通夜みたいな空気感になった劇場を後にした。

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明日も良い日に。

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いしまるゆき
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