【上演されることを前提としていない脚本とは】リーディング公演 「ローマ帝国の三島由紀夫」
タイトルで言いたいことがほぼ言い終わってしまったイシマルです。
年末に行われた公演「ローマ帝国の三島由紀夫」。行けるかどうか悩んでいたらあっという間にソールドアウトとなってしまった為、配信での参加です。
ギラギラのストリーマーで飾られたシンプルな舞台。
演者は6人。それぞれが台本のコピー用紙を持っている。
ト書き部分も全て演者が読んでいく。だが、単純に文章ごとに切るわけではない。
強調すべき単語を時には複数人が同時に、時には単体でかわりばんこに読んでいく。
そして読み終えたページを次々と舞台上に放っていく。時には紙飛行機にして。
これ、リーディングではない普通のお芝居にするとしたら、一体どうやって上演するんだろう。
例えば、冒頭の
幕が開いた瞬間が《始まり》ではない。それ以前に、すでに物事は始まり、継続――し且かつ継起――している。同様に幕が下りる瞬間が《終わり》ではない。
しかしとりあえず、幕は上がる。
とても好きなOP。《》の部分は全員で言っておられた部分。
これならば、ナレーションで済ませられるかも知れない。
でも、これはどうだろう。
ユキコ、口を閉ざす。
サンボンギも黙っている。
すると両者の無言の彼方から、水音。どこかに水が流れているのだ。むしろ流れがあるのだ。この4ドア車が置かれた世界の、その何処いずこかに、川が。
この「無言」は、「コトバの表現」として意図的に書かれていると思うのだが、普通に上演してしまったら、「しじま」という音は、お客さんの耳に届くことはない。
リーディング公演で、ト書きまで読まれているからこそ、我々はその言葉を耳にすることができる。
そういうト書きのコトバが随所にあるのだ。
お芝居の中身は、首、王(天皇)、バルコニー、川等、「サロメ」と「三島由紀夫」に共通するモチーフをちりばめながら進んでいく。
筋はあるようで無いし、ここで終わるのか!みたいなラストだったけれど、終始、演者さんたちのエネルギーに圧倒されまくりだった。
身体表現と言葉だけで、空気がどんどんうねっていく。
言葉の濁流に抗えない。その奔流に流されるがまま流されていたら、よく分からない岸辺にポイッと放り投げられたまま、幕がおりた気持ち。
月末までは配信で見られるので、リーディング公演の新たな地平を感じたい方、ぜひに。
もう一回見られるかな。そんなエネルギーがあるだろうか。
明日も良い日に。