コミットメントで珈琲を
毎朝、わたしはハンドドリップで珈琲を淹れる。
特に深い意味などない。習慣になっているだけだ。
今のような寒い日よりは、暑い日の方がお布団から出やすい。これは間違いない。つか、夏に布団かけてないし。
いずれにしても、さほど思考せず、布団から出て前日にベッド脇の椅子にセッティングしておいた靴下を履き(注1: 冬限定)(注2: 勝負日は、勝負靴下)、10歩少々移動して、ブリタでお水を浄水する。
お水が落ちる間に、翡翠色の入れ物から、その日の分のお豆をザラザラとグラインダーに投入する。
お豆を挽き、ペーパーを設定した三角錐のドリッパーに入れる。そして、洗面所に移動して髪を梳かす。
その間に浄水が落ちる。
それを象さん系のお鼻の長い銀の電気ケトルで沸かす。沸く間に、顔を洗う。これでようやく「目が覚めた」と言える状態になる。
お湯が沸いたら、まずは大きな(黒柳徹子さんで知られる)パンダマークのWWFのマグにお湯を入れ、温める。
谷中珈琲店で言うロースト8くらいの焦げ茶色のお粉の真ん中に、ゆっくりとお湯を注ぎ入れる。熱すぎると、膨らみが悪い。それもああそうか、と受け止める。うまく膨らんだ日は、嬉しい。
こうやって、大きめのマグにいっぱいの珈琲が出来上がる。それを手に、朝のメールチェックをする。ようやく朝が動きだす。
ロケットスタートをしたい日は、この起き抜けの珈琲と一緒に、おめざを頂く。美味しいチョコ一粒だったり、駅前のスイーツ屋さんのフィナンシェだったり、アルフォート(薄いブルーの方が好き)だったりする。これで、朝からトップギアで翻訳にかかれる。
こうやれば、出だしがスムーズになるという儀式みたいなもので、特に何とも思っていなかった。
先日、お客さんと雑談する中で、お一人が珈琲メーカーを探している、という話題が出た。その場には10人弱の人がいた。オススメは何か、という流れになった。
紅茶派な人もいたが少数派で、残りの珈琲派は、このエスプレッソメーカーがいい、とか、お店顔負けのXXメーカーが良いとか、色んなアイディアを投げていく。「ユキは?」と聞かれて、「いや、ハンドドリップで…」と答えた。庶民ですから機械はねえ、くらいの思いだった。反応は、意外だった。
「珈琲にコミットしているのね!!!!」
コミット!!!!コミット??????
わたしの中で、何かにコミットする、とは、清水寺から飛び降りる的な、決死の思いで何かを始める的な言葉だと思っていた。結果にコミットするライザップ様のように、「覚悟」というキーワードを含む言葉だと思っていた。
それが、毎朝ぼーーーーーーーっとしながらやっていることに使われるなんて、想定外だった。
確かに、粉にした珈琲にお湯を注ぐ瞬間、「美味しくなーれ」くらいのことは念じているように思う。それをコミットと呼ぶならば、わたしは間違いなく近い将来、自分の淹れた珈琲を飲む自分の幸せにコミットしているのだと思う。
コミットという言葉が、崇高で、どこぞの上座に鎮座ました何か、と見做していること自体が、思い込みなのだ。
珈琲メーカーはどれがよいか、というありふれた会話から、目から鱗が何枚も落ちた。
落ちた鱗は、その場の人々には見えなかっただろうけれど、わたしはその虹色の鱗を、暫くは忘れないと思った。
そうして、わたしは先ほど珈琲を淹れた。明日も、珈琲を淹れる。そのまた明日も淹れるだろう。
そのたびに、わたしはわたしにコミットしている。今までと何も変わらない行為なのに、わたしの心象風景は、なんと変わったことだろう。そして同じように、些細なことで変わる景色が、これからも沢山あるだろう。
そんな成人式の晴天の朝の記録でありました。