見出し画像

滝口悠生「死んでいない者」

 通夜に集まった大勢の親類の中の様々な人物に視点が飛び、それぞれの通夜を描き出す。酒を飲んで寝入ってしまう小学生がいる。社会と繋がらず、亡くなった祖父と晩年二人暮らしをしていた孫がいる。日本の風習に慣れないながらも誰よりも仕草が日本人らしい外国人の婿さんもいる。血の繋がりがないのにそっくりになっている中年がいる。子供二人を残して行方不明のままのどうしようもない男もいる。亡くなった老人の幼馴染だった男は現実と幻想を同時に生きているし、死人も当然のように口を出してくる。

 表紙には猪熊弦一郎「顔80」という絵が使われている。9×9のマス目に描かれた、似てるような似てないような顔、顔、顔。一マスだけ空白があり、そこは死人のマスとも取れる。よくこのような絵を見つけてこれたものだと思う。


 ずっと、いつかばあさんが死ぬことを悲しみ続けて生きてきた気がする。
 煙草を吸いながら祖父の声がそう言ったのを寛は覚えているのだが、一方でそれは声だけで、よく考えればそんなセリフを祖父が自分に言うとは思えない。全然らしくないし。だから寛は、その時祖父がそう考えていると思ったことを、祖父の声で記憶しているのかもしれない。それでその声に対して、でも生きてる間はそれだけじゃなくてもっと楽しいこととか、楽しい、心のぱっと明るく開ける瞬間が、あったろう。そう返す自分の声もやはり、祖父の無音の声に対する無音の返事だったのか。


 将来確実に失われる何かを悲しみながら生きている、という感覚は確かにある。若さだったり家族の誰彼だったり、自分自身の能力とかそんなものだったり。既に出来なくなっていることに気付いていないだけのことも多い。

 落ち込んだ体力を回復させるために、腹筋やスクワット、鉄アレイ替わりの2kgのゴムボールで適当に腕を鍛えたりしながら、読書を進める。案の定腹筋の最中に息子が飛び乗ってくるし、ゴムボールは奪われる。それを見越して安全な器具を使っているのだが、上に乗られるともう平気ではない重さに息子は育っている。だがそれは息子が重くなっただけではなく、受け止めきれるだけの力が私から失われているだけなのかもしれず。

 死んでいないからといって生きているとは言い切れない。生きているからといって死んでいないとも言い切れない。私はどの位置にいるのかといえば、佇んでいる、と答える。どことは言わず、今いる場所の全てに佇んでいると。



この記事が参加している募集

入院費用にあてさせていただきます。