✅SKYCHOPLOG✅010|血の繋がりは脆い|そして冷酷という現実|けれど私は光を得た|パートナーの祖母を喪った|その後日談001
新年が明けて1月17日
まだ寒さが残る中で5時間パートの清掃の仕事が終わり
「何か温かいものを」を麻婆豆腐丼を夕食に作り
ほっこりと過ごしていた夜の8時過ぎ
「めったに鳴らない自宅の固定電話」が鳴り響いた。
施設からの一本の電話
暖房が効く2階で「食事を済ませたばかり」の私とパートナーはすぐに電話の着信音に気付くのが遅れ、着信履歴を見ると
「祖母の施設」から
・・・・こんな時間に?と一瞬不安がよぎりすぐに電話をかけ直した。
電話先が電話に出ると、すぐ
「祖母に何かありましたか?」と尋ねる
その電話の先から聞こえてきた会話は・・・・。
祖母が夕食後の施設当直の見回りで「意識がなく声掛けにも反応なし、すぐに病院へ搬送」「担当の医師が家族を呼んだ方がいい」という内容だった。
過去にもそのような連絡があり、緊急で病院に運ばれ、入院したことがある96歳の祖母だったが「家族を呼んでください」という
事の成り行きは初めてのことだったので、全く身に覚えがないといった、心境で茫然となり、着の身着のままで、車を走らせた。
まるで眠るようにベッドに横たわる祖母サダ子
施設から電話があったのが20時23分ごろ
気が付くと携帯にも20時16分ごろ施設から着信が入っていた。
病院に就いたのは21時20分ごろ
祖母の施設は自宅から30分ぐらいかかる距離の所に有り、救急搬送された病院はすぐ近くに併設されてる。
病院に到着誰もいない。病院の夜間受付窓口。
すぐに病院の当直の人が出てきたので、
「まだ意識はありますか?」と聞いた
本当に普通に聞いた。その先の答えなど考えもせずに。
・・・・その問いかけの返事が
「もうお亡くなりになりました」
と返ってきた時、私は走り出していた。
「多分これは夢だ」
「ドッキリだ・・・」などと心の中で思ったりしたかもしれない。
でも案内された病室に96歳の祖母サダ子は「眠るように横たわっていた」
祖母の身体は冷たいようで温かい
すぐ祖母の手を握る
顔を触った・・・・・。
「冷たかった」
眠ってるように顔は穏やかで
私は冷静という壁を押しのけてきたとらえようもない現実に押しやられ、
感情が一気に爆発し「大声で泣いた。泣き叫んだ」
「なんで・・・なんで!」
「ごめんねひとりで逝かせて、寂しかったよね」
「声を上げて泣いた」
「悔しいやら悲しいやら何もかもがめちゃくちゃに‼ぎっちゃごっちゃ混ぜになったようなそんな気持ちだった。」
備忘録のため書き留めたい気持ちで、その時のことを思い出している。もう祖母が亡くなって6日。
思い出すように…確認するよう…に今その瞬間に
「私は向き合っている」
ひとしきり泣いて改めて祖母を抱きしめた
顔や手は冷たかったけれど
体温はまだ残っていた。そうまだ祖母は温かった。
臨終を見届けてくれた担当の医師に
「何時に亡くなったのでしょうか?」
「苦しまなかったですか?」
と聞いた。
担当の医師は「1月17日の20時55分にお亡くなりになりました。施設から搬送されて、一度も目を覚まされませんでした。」と答えてくれた。
・・・・そうか
まだ車の中にいた私とパートナー
電話をもらったのが20時半前・・・・。私たちは病院への移動中だ。
本当に電話をもらってからすぐに
祖母は旅立ってしまっていたのだ。
「誰にも看取られずに・・・・。」
96歳の祖母永眠
病院に就いた後
現実に取り残されたような私たちは、
否応なしに現実へと引き戻される。そう、祖母はいないのだ
もう亡くなってしまった。
ベッドの毛布に包まれた96歳の祖母はすぐに「霊安室」へど運ばれた。
すぐさま、そばに付き添っていた看護師が
「ご遺体はどうされますか?」と聞いてきた。
私のパートナーはたぶん、素の状態で(わけもわからず)
「ここに置いておいたらダメですか?」とその看護師さんに聞いたと思う
その看護師さんはその時、「嫌な顔でというより変な顔で…それはダメでしょう。」と本当に心底・・・あきれたように返答してきたのは覚えている。
そんな風に感じたのは気のせいだったかもしれない。
それだけ私たち二人は、弱々しかったのだ、何故ならとらえようもなく突き付けられた、祖母の死という認めたくない真実に
囲まれていたのだから。
身近な大切な人を失う現実
身近な誰かがなくなるという事は、本当に大変なのだと
まだ両親が元気でイチゴを作り、頑張っている私SKYCHOPは否応なしに知ることになった。
新年早々に記事投稿したこちらの記事を何度も、読み返してしまった。
実父も80歳を超える。母もやがて80歳。
こんな思いをもう「したくない迎えたくない・・・」と心底感じた。
体が震えるくらい・・・「嫌だ」と思った。
亡くなった祖母は96歳
数年前までは一緒に暮らし、24時間私たちが介護をしていた。
ある出来事があり、
私たちは強制的に「祖母と引き離されたカタチ」になったけれど‥‥。
パートナーの義母が平成26年に亡くなり
私が今のパートナーと出会った平成28年ごろから、私も介護をしていた。
職業訓練で介護初任者研修を受け資格を取得していた私は介護の経過の中で
色々な意味で「祖母の孫である私のパートナー」に助言し、彼はとても献身的にばーちゃんの面倒を見ていた。
「排泄・おむつ替え・食事の面倒・病院への送迎」
私たち孫の立ち位置で、なんで?そこまで面倒を見なきゃいけない環境に「思い重圧」を感じていたこともあった。
でも私はサダ子ばーちゃんが大スキだった
もう一度抱きしめてあげたかった。
このコロナ禍で
亡くなるまで半年ほど
「ガラス越しにしか施設では面会できなかった」からだ
実娘は愛知にいるが…😨その後の手続き001
まずは、急な本当に…急な出来事だったけれど
私たちは各方面&身内に連絡をしなければならなかった。
すぐに愛知にいる残された
たった一人のサダ子ばーちゃんの実娘であるけいこおばちゃんに連絡した。
「・・・・私は来んよ。このコロナやけん。
透析もあるし、ごめんばってんバーさんの年金があるやろ、たのむばい」
「すぐ明日の朝ばーさんの預金ば下しときなっせ」
そんな会話が続いた。(らしい)
私は祖母の訃報を連絡する連絡係ではなかった。
何故なら病院でその場で
各書類やその後の葬儀の手配で「てんやわんや」だったからだ。
最初にも述べたが、私たちが住む自宅から、祖母が亡くなった病院は車で30分以上の場所にある。祖母が永眠されて冷静になり、各方面や身内に連絡するまで「私たちは時間を要した」
しばらくばーちゃんが眠る霊安室でぼーっとしていたからだ。
なんでも病院で亡くなった場合1時間以内に病院を出るのが「その後の流れ」らしいけれど・・・・。
私たちは孫だ。孫の立ち位置でその後の通夜・葬儀の準備を考えて実行することは、本当に否応なしに「追い立てられて途方に暮れそうな迷子が自力で道を見つけるようなもの」だった。
その後の手続き002通夜
96歳の祖母が永眠して、各方面身内に連絡がなんとか行き渡ったことと、同時進行で葬儀をどこでやるか?
という事で私と祖母の孫である私のパートナーは、義母がお世話になった葬儀屋さんを選んだ。
JA農協関連の葬儀屋さんで、すぐに、ご遺体を運んでもらわないといけなくなり連絡すると、場所が遠いので1時間半は「ご遺体のお迎え」に時間がかかるという事で、私は病院内で当直の事務の方と相談して連絡を待ち、私のパートナーは車でいろいろ会社やら何やら・・・連絡することになった。
結局いろいろな手配が済んで、眠るように横たわる祖母を身体を通夜の会場に運び込んだのは夜中の2時近く。
それから変な話だが(たぶんそれが普通なのだろう・・・。)
通夜とお葬式(告別式)の打ち合わせが
葬儀屋さんスタッフの担当の方と延々と1時間半以上続いた。
その日(もう夜は明けて18日)だったけれど駆け付けた、サダ子ばーちゃんの姪御さんのゆうこおばちゃんに見守りをお任せして、一時自宅に戻ったのは4時半ごろだった
通夜・告別式(お葬式)費用は孫が😨
たった一人残されているある意味一人娘の愛知のおばさんは来ない。
「あとはたのむけん」
「ばーさんの年金があるやろ」
たったそれだけ・・・・。その後パートナーに聞いた話だが・・・・。
まだ通夜も終わってないのに
「死亡診断書もらって送って」という連絡がきたらしい。
他人だけど・・・パートナーのおばさんで「大好きだったサダ子ばーちゃんの娘だけど」胃の中のひっくり返して吐き出して「吐き出して」げーッて言いたくなるくらい「腹が立った」
知らせを聞いた神奈川の義妹の家族や鹿児島の義妹たちはすぐさま
次の日(18日)の午後には熊本まで駆けつけてくれた。
神奈川の妹は子供連で(小学生二人)
鹿児島の妹も息子と
13人も子供がいる東京の妹はコロナの影響や子供たちの面倒もあり、帰熊(帰郷)を断念 ・・・・。
孫たちがこれだけ頑張ってるのに・・・・。
本当に悔しい・・・
●ご供養のお花代を喪主を務めた私のパートナーに最終的に立て替えさせた
亡くなった祖母の実娘(実は私が立て替えた2万5千円)
●その後供養のお花の位置に文句をつけてきた愛知のおば
●通夜の日も葬儀も終わっていないのに、連絡してきたのは死亡診断書だけ一番最初に送れと言ってきた愛知のおば
●施設を退所するときに請求された「医療費そのほかおむつ代実費」の請求書の山(年金だけじゃやりくりできないよ)😨葬儀代もあるのに
●通夜。葬儀が終わってもねぎらいの言葉さえかけてこない愛知のおば
●立て替えたお花代は送るけん!といいながらいまだに送ってくる
気配すらない(今日まで連絡もない)
常識しらずの愛知のおば
●結局、なにも実のところサダ子ばーちゃんが居なくなって(つд⊂)亡くなってしまったのに…何もしないする気もないのだろうと感じる愛知のおば
●通夜・葬儀その後の手続き・役所ほか私たちは1週間近く仕事を休むことになったのに・・・・。
腹が立つことばかりの現実が続いてふたを開けてみると
もう通夜・告別式はすでに無事に終えた。今日は23日
通夜は17日の夜中にご遺体を安置したので
18日の夜19時から行い
19日の午前11時から告別式・葬儀を執り行った。
急なことにもかかわらず
お通夜・弔問・葬儀にご参加していただいた皆々様には本当に心からお礼を申し上げたい。
殴りつけたいほどの現実でも「光を得る」
96歳の祖母が永眠し、私は今日まで会社を休んだ。
本当は今日から仕事に復帰するはずだったが
色々事情があった。
そのことについてはまた別の記事にまとめてみた。
思い返すと泣けてくる
いろいろ大変な数日間だったが
私は「何物にも得難い光を得た」
その光が何なのか?
どうしてそう感じたのか?と思いを巡らせてみた。
私個人の愚痴にしか感じられない記事だったのかもしれないけれど
本当に・・ほんとうにいろいろと
大変だったのだ
それはコチラの記事で是非、心から続きをお読みいただきたい。
ばいばいまたね BY SKYCHOP
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