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耳鳴り潰し278(白起、撤去された屋根、純文学?)

 王欣太「達人伝」読了。一番気になった武将「白起」の四十万人埋め殺しについて、異想随筆集「白起四十万」を書く。

 娘が横になっていたので、家で息子とあまり遊べないため、公園へ行く。グラウンドが空いていたのでキャッチボールなど。やがて野球クラブの方々が来たので遊具の方へ。巨大滑り台の方へ行くと、ベンチの上の屋根がいつの間にか撤去されていた。老朽化のせいだろうか。石造りの滑り台もいつまであるか分からない。何十年と今の形であったのだから、そろそろ取り壊しになっても不思議ではない。

 帰り際に以前にも会ったことのあるトイ・プードルと触れ合う。目が合った瞬間から尻尾フリフリ状態であった。

 ふと気づいたことがある。
 自分がよく本を読むようになった頃、好きになった作家の多くが純文学系の人たちだった。だから自分もそういったものを書くのだと漠然と思っていた。でもそれって、当時は新聞やら文芸誌やらで芥川賞の候補作のあらすじなどが紹介され、自分が興味を持った作品・作家を手に取っていたからではなかったか。それらに自然に触れる機会があったからではなかったか。

 十年ほどの空白期間を経て読書復帰した際に、元々好きだった作家の未読作品を読むところから始めた。しかし積極的に新しい作家を取り込もうとはしなかった。芥川賞の時期になっても、それらの情報に触れることもしていない。

 文芸誌の新人賞に出す作品を書こうとした時、いつも筆が止まった。ある程度の構想を練った時点で冷めてしまった。「〇〇風に」「文芸誌の新人賞を獲るような作品を」と思い始めると、自分の書くものに興味を失ってしまうのだった。

 新都社で気軽に投稿したり、日常と非日常を織り交ぜるような書き方をする際には、そういったことはない。純文学系が好きだから、自分も純文学的なことを書くだろう、というのは、思い込みではなかったか。
「書き上げたものがたまたま純文学系であった」なら問題はない。
「純文学系のものを書き上げようとする」が問題なのだ。

 などといったことを考える。要は不自然で嘘くさくなるのが嫌だったのだろう。

 いくつかAIイラスト英語教材風ネタを追加する。

ボール投げろ


食べられます


すぐに使えます

 今日の一枚「スランプ中の文豪風テディベア」

頭をかきむしろうとするが届いてない


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泥辺五郎
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