【読書記録#32】【うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真(幡野広志)】
大学3年生の時。
私は海外に語学留学へ行き、その時にデジカメを持って行ったのだが、寒すぎたのか壊れてしまい、写真が撮れなくなってしまった。
当時よくしてもらっていた先輩に写真を撮る人がいて、楽しそうにカメラを構えたり、出来上がった作品をFacebookで共有したりしていて、私の目にはとてもかっこよく映った。
カメラが壊れたのをきっかけに、入門用の一眼レフを購入し、私も写真を始めることとなった。
初めて買った一眼レフ。
最初に撮影したのは家にあった空のペットボトル(綾鷹)だった。
なんでこんなの撮影しているんだよ、と思うかもしれないが、なんでもよいので撮りたかったのだ。
その当時は、どんなものにもカメラを向けて、写真活動を楽しんでいたと思う。ヘタだったけれど、よい写真が多かったように感じている。
今はどうだろうか。
幸いにも、私は会社の中で撮影部署というものに所属し、日々どのように撮影を進めていくか、どのような写真を撮影すればよいかを模索している。
最近だと自分では撮影をすることがほとんどなくなり、後輩の育成に注力しながら、会社の業務をこなしている。後輩たちが、うまい写真を撮影できるかどうか。そこに目を向けて写真の評価をしている。
写真に携わることはできているのが、写真を楽しむことはできているのだろうか?
本書では、タイトルの通り「うまい写真」が必ずしも「よい写真」ではないということを前提にしながら、写真を撮影するうえでもっとも大事にしたい、いやこれがないと写真が撮れないといった理由を改めて思い出させてくれる。
本書は上記引用のように話し言葉のような書き方で進んでいくが、これがまた読んでいて心地よい。
さて、著者の意見は「誰かに何かを伝えたい」から写真を撮る、ということだった。自分はいったい何を伝えたいのか。
大学生の時は学友たちと遊びに行ったときに、表情の写真を好んで撮影していた。のちに表情だけを集めたアルバムを作ったぐらい、親しい人が自分に見せてくれる表情が好きだった。
人を撮影するとき、カメラマンとの関係性が映るものだと考えているのだけれども、学生の時の経験がそう思わせてくれる。どんな写真であっても、「よい写真」だと思えたから、Facebookなどでシェアしていた。
今は「うまい写真」を仕事で追い求めている。もちろんそれも間違いではないのだと思う。基本的に撮影するのは人間ではなくモノ。商品の特徴を伝えないといけないので、ライティングなど凝った「うまい写真」である必要がある。仕事だから、こういう努力をするのは悪くない。
じゃあ趣味では?どんな写真を撮影している?
ひとりではほとんど写真を撮らなくなった。学生の時につるんでいた友人たちとも連絡を取らなくなったし(もともと誰かに自分から連絡を取って何かをするのが苦手なため)、「うまい写真」を撮影するのを無意識のうちに自分に課しているのだと思う。
妻がまだ彼女だったころから、人を撮影する楽しさを思い出した。カメラでも、携帯でも、なんでもかんでも妻の写真を撮影するし、妻と行った場所は写真を撮るようになった。
先ほどの引用の「誰かに何かを伝えたい」という意味で言えば、妻との思いでを妻や家族に共有したい、というところで撮影している、のだと思う。だから妻といるときにしか写真を撮るエネルギーが湧いて来ない。
これだけでも十分な理由にはなっているが、カメラマンとしてはまだまだレベルアップしたいので、また趣味で写真を始めたいと思う。
その時には本書で思い出した初心を大事にしながら、今の自分が表現したいことを追い求めていきたいと思う。
それではまた、次の本で。