『魔の山(トーマス・マン)』【読書記録#36】
20世紀ドイツの教養小説の名作と呼ばれる、『魔の山』。
この時代に書かれた日本のエッセイでも、たびたびこのタイトルが登場するぐらい、力のある作品である。
そのぐらい名作と呼ばれるのであれば、読んでみる必要があると思い、この度私も『魔の山』に入山することに。
上下巻合わせて1500ページ、おおよそ2か月かけて読み切った。1日20分程度の時間しかつかっていなかったので、このぐらいのペースになるのはある意味妥当。
ページ数が多いことも読了までの道のりを険しくする要因のひとつであったが、求められる教養のレベルが段違いなこともページを捲る手を止めさせ、文章から目を泳がせ、思考を鈍らせる要因となった。
正直に告白すると、「名作」と呼ばれるゆえんをつかみ取ることができなかった。これは私の力不足なのだろう。
『魔の山』の話の展開をざっくり説明しておく。
舞台は第一次世界大戦の10年ほど前。スイスのダヴォスという高原にあるベルクホーフという国際サナトリウム施設が舞台。
主人公であるハンス・カストルプが、ベルクホーフに療養しているいとこのツィームセン・ヨーアヒムの見舞いがてら、3週間ほど滞在するということから物語が始まる。
当初は3週間の滞在予定だったのだが、滞在中にハンス・カストルプの隊長に異変が生じ、そのままベルクホーフで療養を続けることに。
『魔の山』は、このハンス・カストルプが療養している間に出会う人物・出来事を通じて内面的な成長を遂げ、自らの世界を広げていく、という物語だ。
ざっくりいうとこんな感じなのだが、人の内面的成長は必ずしも爆発的に起こるわけでもないし、それが起きたからといって、物語の世界を大きく変えるようなことにはならない。
ここでの内面的成長は、時間や自由といった様々なことに対する視座を、ハンス・カストルプが獲得することである。そのために手助けとなったのが、セテムブリーニとナフタという論客なのだが、この人たちの話がまったくもって読み取ることができなかった。
非常に高尚なことをしゃべっているのはわかるのだが、何度読んでも意味が取れないところばかりで、この2人の話は飛ばしがちになってしまった。
おそらくこの2人の話の内容がわかる人にとって、ハンス・カストルプが得た教養が意味あるものだという理解がなされるのだろう。
私のような一般人には到底理解が及ばぬ話題ばかりであったが、そういった話を実現できる作者トーマス・マンの勤勉さや、当時の教養レベルの一端を知ることができた。
私が年を重ねて改めてこの本を手に取り、その時少しでもその内容に近づくことができたなら、私もハンス・カストルプのような内面的成長ができたと言えそうだ。
まだまだ伸びしろがたくさんあるということを感じて、今回は終わりとする。
それではまた、次の本で。