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2020年 中高生部門(高校生の部)最優秀賞『封神演義』

受賞者
牧野 生実さん 高3

読んだ本
『封神演義』 許仲琳作 渡辺仙州訳 偕成社

作品
タイトル:『封神演義』―あれから一年、受験生が哪吒に惚れ直す―

1)私と封神演義の因縁

 私と封神演義との運命的な再会から一年ほどが過ぎた。既にかなり厳しい受験期に突入している私だが、初めて出会った小学三年生の私、再会した高校二年生の私をその魅力でがんじがらめにした封神演義は、性懲りもなく高校三年生となった私をもまた虜にしてやまなかった。それも、読めば読むほど味わい深くなってくるのだから、性質が悪い。私はまた、取り憑かれたように封神演義に没頭した。

 封神演義は史実である殷周(易姓)革命に基づいた、商(殷)の紂王の堕落に対する周の文王・武王の民衆に支えられた台頭と、仙界と人界の間に新たに神界を設置する為の殷周戦争の犠牲者の封神という、ふたつの軸が複雑に絡み合って成されている物語である。初めての出会いについては昨年度の文章に任せるとして、今回は愛して止まない封神演義の魅力について更に深く語っていきたい。

2)封神演義の魅力―哪吒へといざなう道―

 はじめに、封神演義の物語としての魅力はなんと言っても圧倒的な没入感と、流れの美しさである。まず読み始めてすぐに、動乱の予兆に対して鳥肌が立つ。一読者として妲己の真実を知りながら読み進めているのに、まるで物語の内部に取り込まれてしまったかのように、王が段々狂っていく姿に、恐怖を感じずにはいられなくなる。私は時計の修理に関する動画を観たことがあるのだが、封神演義の導入部分はまさに、運命の歯車が少しずつ狂いだして、最初は小さく、そしてその小さなずれが積み重なって音を立てて噛み合わなくなっていくようだと言える。読者を掴んで離さないこの引き込まれる導入部分こそが、封神演義を無我夢中に読み進ませる要因のひとつなのではないかと思う。

 さらに封神演義の世界観もその要因に含まれると考えている。仙術や道術などが出てくる関係で主人公に対して様々な救いの手が存在しているので、キャラクターたちが死に近付いたり死んだりする緊張感を読者に与えることができると同時に、一方で回復させたり生き返らせたりして主人公を含む中心的なキャラクターを物語の中心から離さないことで読者のことも物語から離さずにいることができるのである。(一秒の時間も惜しい受験生という立場から見ると、理論的には睡眠をとることなく回復して睡眠をとったのと同程度の体力を維持できることになり、大変羨ましい限りである。)

 また、天界、仙界、人界など様々なバックグラウンドを持つ人物らが一堂に会し対立や協力、師弟関係、主従関係など様々な関係性を構築している封神演義であるが、種族として完全に人間である存在が少ないながらそのキャラクターたちが極めて人間的であるという点で、自己投影をしやすくして読者を惹きつけているとも言える。弟子が師匠に反抗したり、総大将の言うことを一介の兵士が無視したり、娘を殺されて怒ったり、女の美しさに溺れていったり、それら全てがごくごく当たり前の出来事であったり感情であったりする。紂王でさえ最期に反省をするのだ。少し格好つけて言えば、キャラクターたちは誰もが、どうしようもなく人間だった。(逆に一箇所だけこれまで人間的な面が強調されてきたキャラクターに道術使いという設定がのしかかった部分がある。それが下巻で楊戩が人を恨む気持ちや故人を痛む気持ちをなくしたと哪吒に語った場面である。すぐに腹が立ったりひどく恨んだりしていては自分本位になりやすく、私も学校で自習している時に他学年に対し五月蝿いとひどく腹を立てたことがあったが、今思えば自分本位で理不尽な怒りでしかなく、そうした感情を制御できるようになりたいと思わないではないが、修業によって大切な感情までも失っていく様はどこか痛々しい。)

 こうした魅力が封神演義を開いた人をガッチリと掴んで最後まで読み進ませるのだ。そして、文化的背景について考えれば、桃の木を植えている姜子牙の描写があるが、桃は仙木であることから、勿論様々な道術が登場する封神演義の世界観を補強するものであると考えられるが、一方で三国志演義で三人が桃の木の下で誓いを交わす描写と同じで、「真実・史実ではない」=演義であると示すものだとも解釈できる。こうした表現で作者と読者で作品を堪能する上での暗黙の了解を形作っておくところはとても面白い。そもそも物語というものは多面体で、作者は伏線をはったり美しいオチを用意したりと執筆という過程をもって多面体を形作るが、それに対して読者は独自の理解などを加えて更にこの多面体を複雑にしていくのである。実際これが、時には作者ですら思いつきもしなかった発想などもあるほど読者の中でも解釈が割れる原因でもあって、書物の趣深さでもある。その中で共通の一面、どうしてもわかってほしい一面などをしっかりと挟み込んでおくというのは、許仲琳が意図的に行ったかはさておいて、興味深いことである。

 なお封神演義の文化的側面について、私の中で昨年度と最も変化を遂げたのは漢詩への興味である。実は最近私は中国名詩選を購入するなど白文で漢文を理解する試みを行っているのだが、封神演義では漢詩をわかりやすく日本語に訳して載せているので、漢文で読んでみたいと思ったのだ。文王が漁師の口ずさむのを聞いただけで音律から賢人を察するという表現があったが、これは高校レベルで学んでいるだけではわからない、中国語での美しい音の流れがあるということで、漢詩は実際には単なる漢字の羅列ではなく決められた声調に沿って場や時に即して作られた美しい詩であるので、いつかネイティブが理解するようにその美しさを理解できるようになりたいのである。

 また世界史を昨年以上によく学んでいるからだろうか、封神演義の現代性と、人間臭いキャラクターたちが表す人間の普遍性に目が行くようにもなった。この現代性と普遍性は封神演義をただの演義にとどまらせず、私達に学ぶ機会を与えてくれる。例えば仙界での宗教戦争について言えば、人界の戦争に介入して起こっている様を見ると、各地の戦争に介入して代理戦争を行った米ソ冷戦にも似ていると言える。また、戦闘を宝貝に頼るところが、使いこなせるようになるまでには多少時間がかかるが絶大な力を発揮する今日の戦争の武器、例えば戦車や火砲などの使用と類似しているし、戦争で名前がついているキャラクターがどんどん死んでいくところが実際の戦時中の命の軽さの表れのようであったりもする。さらに、正義と正義のぶつかり合いだからこそ長引くという戦争の本質を見ることもできた。キャラクターたちが皆どうしようもなく人間だったと前述したが、まさにそれ故に戦争は起こるのだ。そのような状況下で悪として描かれるキャラクターもまた、同情出来ぬではない。特に申公豹の嫉妬には受験勉強でつい自らを省みず才能を羨むことがある自分に深く突き刺さる。というのも、私が現実世界でこれから先、申公豹にならないでいられるとは限らないからである。また、敵味方無くなるのが死後のみだというのも現実の無常を表していて、どうにも封神演義の封神を昨年度のような穏やかな気持ちで受け入れることはできそうにない。これは現代の戦争でもまたほとんど真理であって、救われない閉塞感を感じるのだ。それだけでなく物事が大事に発展していく際には、一人ひとりの行動によって少しずつ火種が大きくなっていくこともあれば、急激に大きくなってしまうこともあり、どちらであろうと結局争いはすぐに起きてしまうということも学ぶことができる。作中の状況を示せば、目の前の敵を殺すという戦場に於いては最善の手立てが、後々宗教戦争につながって自分を苦しめるなど、キャラクターたちは勿論読者でさえ予想もできないだろう。

3)封神演義イチの「推し」、哪吒を語る

 そんな封神演義の数々の仕掛けの中にあってその術中に嵌ってしまったのか、私は誰よりも人間臭い哪吒というキャラクターが大好きになってしまった。所謂「推し(=特に好きな、という意味)」であり、私は「哪吒ヲタク(=愛好者、ファン)」である。

 哪吒という人物は、はじめから、自らの上に立つものに自分なりの道理を押し付ける子供っぽさはある一方で、自分の起こした行動に対して(普通の子供ではないにしても)7歳にして責任をとっていて、現代人も見習うべき格好良い行動である。

 また、これは直接的には哪吒とは関係がないが哪吒の名を冠した章では、普通の子供ではないと明らかに分かる状態で生まれた時も哪吒を愛し、迷惑をかけられたのにも関わらず死後の廟をたてて復活の手助けをするなど、無償の母の愛も良く描かれていて、自分の母に感謝する気持ちを思い出させてくれる。そんな哪吒を産んだ母にも、生まれてきてくれた哪吒にも愛が止まらない。一方で父とは対立して兄らの主張する儒学的常識に対して、自らの恨みを優先する子供っぽさがいつまでも健在だが、ただ親とどうしても意見が合わないこともあるだろうし、廟を壊されるという、ある意味二度殺されたような父親の失態であったので、贔屓目の可能性も否めないが、それを咎めることは私にはできそうにない。

 哪吒について、訳者あとがきにあるように、哪吒は中国では少年英雄の象徴で、日本でも封神演義以外の作品でも多く活躍している。私が心惹かれたのも、この純粋な少年らしさとその強さによるのかもしれない。哪吒のセリフに師匠を恐れて天を恐れないとある通り、大の大人に対しても行われる、実力に裏打ちされた傲慢な挑発が否応なく哪吒の少年性を高め、その強さとのギャップで私をノックアウトした。勿論同じ少年ならば白鶴もいる。しかし私は、ただ強い立場、圧倒的強さを持つだけの存在を推す気にはなれない。神だの、仙人だのが沢山登場する封神演義だからこそ、超越的な存在ではなく、かえって最も人間的な存在を応援したくなるのだ。

 ただ哪吒にも可愛らしい一面はあって、道術の先輩に道兄、道兄と素直な感情表現で懐く姿が印象的だ。哪吒の子供っぽさの中に、大人というか強い者に憧れる気持ちがあることが、余計その子供らしさを強調しているように思われる。

 さらに、相手が弱くても打ち合って遊ぶ哪吒が軍全体として追い詰められて真剣に戦う姿は普段とのギャップで惚れ惚れする。また哪吒は蘇りたての頃は高位の仙人などにも敬意を払わず戦いを挑んでいたが、修行を積むことでそういったことはしなくなる理性的な成長も見せている。それだけではない。哪吒はすぐに先陣を切る勇気や、危ない時にいつでも助けに入る優しい心も持ち合わせている。一度は哪吒と対立した父李靖とも仲直りをし、危険だと悟れば驕らず逃げることができるようになるなど、その成長事項には枚挙に暇がない。そうして成長していってからも子供だと侮られてもそれを逆手に取って挑発をやめない哪吒の胆力も見習うべきところがある。

 また、生まれたときから特別だった哪吒はそれにかまけてしまったところがあった、というような言葉あり、その前のシーンで才能(哪吒)が努力(余化)に負ける瞬間が描かれている。これは「推し」がやられている場面でありながら、努力が実ると、元々の天才にも勝つことができると私に希望を与えてくれた場面でもある。そして、自分の弱さを認め厳しい修行にも耐え力になると約束する哪吒は、精神的に大きく飛躍を遂げ、さらにきらびやかに見えた。受験勉強に於いて自分が苦手な科目を避けて、得意な科目にばかり逃げてしまっていた私は、これを読んで少々勉強する科目の比率を変更した。「推し」が頑張っているのに、そのヲタクの私が頑張らない道理はないのだ。

 こうして考えてみると哪吒はギャップと成長の人だ。元々ギャップの大きなキャラクターではあったが、成長を繰り返してどんどんそのギャップも更新していき、私のような哪吒ヲタク、ひいては読者全体を飽きさせない。現代でもギャップ萌え(=意外性による好意)などという言葉があるが、当時の人もそのように考えていたのかもしれない。そう思うほどに許仲琳の描写は鮮やかだ。ヲタクの贔屓目を抜きにしても、哪吒の生気は開いた本から溢れ出そうなくらい輝いている。非凡で、素直で、傲慢で、強くて、優しくて、努力家で、誰よりも生きている哪吒を、好きにならずにいることなどきっと不可能だ。私を引き込んだ導入部分も、道術・仙術に相対化されたキャラクターたちの人間臭さも、文化的背景も、哪吒に出会い愛する為の布石だったのかとすら思う。それほどにまで哪吒は、17年しか生きていない未熟なこの身で恋よりも愛を覚えた存在なのだ。受験勉強にふと疲れてしまった時、私は封神演義の下巻を引っ張り出してくる。哪吒の素晴らしい成長が描かれた下巻の、その表紙で当の哪吒が生意気に陣取って、真剣な表情の中に微かに見える不敵な笑みで、私を煽って焚きつけるのだ。きっと受験当日の朝もこうやって哪吒に励まされるに違いない。

【補足資料】

〈2019年度応募作品〉

私を知る〜封神演義が教えてくれたこと〜

 封神演義は私が初めて読んだ長編小説だった。小学3年生の1学期に、学級文庫として教室においてあった本で、外遊びが嫌い且つ読書が大好きでずっと教室に引き籠っていた私に、副担任の先生がそんな私を責めることもなく薦めてくれた本だった。その時に「ちょっと難しいかもしれないけど、そんなに本が好きで読んでいるならきっと平気だよ」と言われ、否定されずに心行くまで読書を楽しめることに内心小躍りしたのを今でも覚えている。あのハリーポッターシリーズを読んだのも小学4年生だったので、本当に初めて読んだ長編だった。ハリーポッターシリーズとは違って実際には上中下の3巻しかなかったのだが、話の構成に引き込まれて数時間で読了し、薦めてくれた先生すら呆れさせたことはなぜだか記憶に焼き付いている。封神演義は、仙界と人界の狭間が曖昧になっている世界で新しくその間に神界を設置するという仙界での取り決めと、名君であった商の紂王が女禍という神仙を侮辱したことで報復され国を乱していくという話が並行して進み、周の武王らが紂王を倒すという過程での死者を主人公で武王の側近である姜子牙が神として封じる、つまり封神を行うという話になっていて、史実である殷周易姓革命をもとにフィクションとして描かれた作品である。実際には確かな史実は少ないのだが、小学3年生の時点で中国の歴史や習慣というものを少しでも知ることができたのは自分にとって大きな収穫であり、その後の中学受験での日本史や大学受験での世界史への興味に結びついたと考えられる。現在でも私は世界史に深く興味を持っていて、その中でも特に中国史は学べば学ぶほどさらに深い興味へ導かれる為、とてもそそられる。封神演義の作品自体は、先生からは難しいと言われたものの、キャラクターやその特徴を絵で説明してくれていたので、想像がつきにくい技でも鮮明にイメージできて、本当に面白く感じたのを覚えている。特に私は哪吒という、子供っぽい性格から戦いを通して心身及び仙術が成長していくキャラクターが大好きで、哪吒が成長する過程、特に誰かにやられてしまい悔しがるシーンは、高度な仙術争いと慢心からくる敗北が両立していてとても興奮した。学級文庫が少なかったことも相まって一週間に1回は読み返していたのも今でも私に残る良い思い出だ。封神演義はそれを参考に漫画化及びアニメ化もされている名作であるのだが、作品の中で飛び交う様々な仙術達はフォトジェニックならぬムービージェニックであると考えることができ、当時の私はキャラクターや技が動くところを想像して作品を読み進めることもあったので、私のグラフィックやアニメそのものへの興味もこの頃に形成されと言って良い。さらに、小学5年生で私はその当時図書室に仕入れたばかりの長編だった怪盗ルパンシリーズと運命の出会いを果たしたのだが、それを読もうと思ったきっかけも封神演義だった。私は今ではルパンシリーズを原語で読みたいと思うほどの熱烈なファンであるのだが、ハリーポッターシリーズ以上の長編であるルパンシリーズを読んでみようと思ったのも、最初に読んだ長編たる封神演義が面白かったからである。こうして封神演義はたった一つの話でありながら私を大きく動かし私の趣味や志向を形づくっていった。現在でもその時形成された私らしさは残っていて、特にアニメに関しては、中学校に入学してから元々持ち合わせていた興味と周りの環境のおかげで詳しくなり私の趣味として確立させることができた。さらにアニメ関連での友達ができ、アニメを通して交流することが増えていった。つまり、封神演義という作品は全てが私の血肉となった私の原点とも言うべき作品なのである。

 最近になって私は封神演義のことを思い出して、ネットで探して買ってみた。小学生の頃の熱狂というものは意外と成長しても忘れがたいものであり、それはちょうど子供の頃に好きだった懐かしいゲームを、社会人になって急に思い起こしてやってみるというようなことに似ている。本が届いてから、私が小学校在学中の頃にはハードカバーだった封神演義3巻セットがソフトカバーになっていたことを知った私は、歳月の流れをその身に深く感じた。高校生になってから読むと、小学生の頃とは変わった見方ができるようになるものだが、私の場合本格的に中国史を学び始めてから読み返したので、「ああ、これはこういう制度を指していたのか」とか、「これはこういうことだったんだな」と感じることが多くなった。例えば、紂王の死後王位についてほしいと言われた武王が、私のような者が王になどなれないと主張し辞退しようとするところは、文武百官と共に迎える禅譲の儀式を示していて、これは伝説上の五帝から続く中国伝統の王位継承方法である。作品のあとがきにも書いてある通り作者として一番可能性が高い許仲琳は明代の人物であり実際の殷周易姓革命とは時代にズレがある為、書かれている習慣や制度が明代のものであったりすることから、そのギャップを探すのも高校生になった私ならではの楽しみ方だ。また、封神演義の最後には死んだ者が全て敵味方関係なく神に封じられそれを受け入れるというシーンや、悪逆非道の限りを尽くした紂王が反省した様子を見せ丁寧に埋葬されるというシーンがある。そのシーンについて子供の頃は敵なのだから神にする必要も丁寧に埋葬する必要もないと感じていたが、そうではなく死者への敬意や、勧善懲悪かつ主人公たちつまり周側の慈悲深さも見せるためにそのような結末を迎えさせたのだと自分なりに考察することが出来る。このように自分で解釈できるという点も封神演義を私にとって非常に魅力的な本に見せる一因である。

 この封神演義という作品は幼い私を魅了して今の私を形成しただけでなく、高校生になった私をも虜にする魔性の本だ。小学生で出会った本というものは大抵がその年齢向けに作られていて後になって読んでみると落胆することも多いが、この封神演義はそれをさせないところが大きな特徴だ。それはまるで芳醇なワインの香りを理解できずそれをただの見目麗しい色鮮やかな飲み物だと思っていたのが、後になってその香りの豊かな膨らみや贅沢さに気が付くかのようであり、もしくは、奈良の寺院の良さを理解できずにぐずっていただけだったのが、後になってその侘び寂びを趣深く感じるかのようでもある。所謂噛めば噛むほど味わい深いという言葉は封神演義の為にあると言っても過言ではない。恐らく誰にとっても、思い出深い本というのは存在するだろう。小さい頃に愛した本、それは今読み直すと全く違う一面を見せる可能性を持つ宝の箱だ。少なくとも私はこの宝箱を開けることで自分を再発見することができたのだから、きっと誰もが何かしら得るものがあるはずだ。それを探索することをここに勧奨し結びとする。

受賞のことば
 最優秀賞に選んでいただき、大変光栄に思います。前年度と同様『封神演義』を選び、作文に挑戦しました。前回そして今回と、書くことで益々作品に対する愛が深まったと思います。またアウトプットの手段としての執筆のみならず、書くことそのものを楽しむことができました。高校卒業後も書き続けたいと考えています。改めまして、受賞致しましたことを心から感謝申し上げます。

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※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。また、ネット上で読みやすいように、長い作文には空行を加えています。――読書探偵作文コンクール事務局

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