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「取り残された人」のための物語ーミニ読書感想『望楼館追想』(エドワード・ケアリーさん)
鬼才エドワード・ケアリーさんのデビュー作『望楼館追想』(古屋美登里さん訳、創元文芸文庫、2023年1月27日初版)が胸に深く残りました。これは時代に、社会に、「取り残された」と感じる人のための物語です。
取り残された人。それは、社会の側から見れば「共感できない人」とも言えます。
本書の主人公フランシス・オームは、望楼館という今や古びた集合住宅「望楼館」に住んでいる。身近な人の大切なものを盗むという、極めて不届な盗癖がある。37歳の男性。ある事情から、24時間常に白い手袋をはめている。
「スペック」を競い、互いに蹴落とし合うような現代社会に照らしてみれば、主人公は決して勝者とは言えない。さらに盗癖や手袋をつける変わった習慣を考えても、共感し、応援できる主人公とは言えない。
でも、だからこそこの物語は私の心を打つ。弱く、醜い面があり、だからこそ他人に優しくなれない多くの「普通の人」は、共感できない主人公に自分の姿を重ねてしまう。共感できないし応援できないのに、どこか繋がってしまう。
ネタバレだと怒られるかもしれませんが、本書はそんな主人公の逆転劇でも、成功譚でもない(と私は読後に感じました)。ただ、それでも、彼が生きる物語ではある。物語が彼の元を訪れると言っても良いでしょう。
訳者は、本書の書き出しに「ノックアウトされた」(P558、訳者あとがきより)と語ります。たしかに本書を通読したあと、書き出しに戻るとそのリズム、導入の仕方に本書の魅力が凝縮している。
ぼくは白い手袋をはめていた。両親と暮らしていた。でも、小さな子どもではなかった。三十七歳だった。下唇が腫れていた。白い手袋をはめていたが、召使ではなかった。ブラスバンドの奏者でも、ウェイターでも、手品師でもなかった。
召使でもない、ブラスバンド奏者でもない、ウェイターでも手品師でもないーー。「何者かであること」よりも、「何者でもないこと」をもって自らを語らざるを得ない。それもまた、何者にもなれなかった「普通の人」の実像です。
一方、この自己紹介は主人公なりの自己認識の表れでもある。白い手袋といえば、普通は召使やブラスバンド奏者など、清潔であることを社会通念上求められる人がはめている。でも、自分はそうではない。このあとに主人公が何者であるかも語られ、一見すると腑に落ちるのですが、物語を読み進めると違和感が募る。そう、普通ではないのです。普通ではないことは主人公も分かっている。
主人公は、他人に抜きん出た美点がないという意味で、でも社会一般から逸脱しているという意味で、二重に「普通でない」。そしてそれを自覚し、読み手に開陳している。ここからスタートする物語である。これが、取り残された人のための物語であることの証明です。
逆にいえば、何も持たない主人公にさえもたらされるものが、物語だとも言えます。それは、この社会で生きることがしんどい人にとってもまた、希望の一種と言えなくもない。
だから私は、この本に出会えてよかった。そう思うのでした。
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