ここにいながらできる旅ー読書感想「泣きたくなるような青空」(吉田修一さん)
読む”旅”をどうぞ。帯の惹句に偽りはありませんでした。吉田修一さんがANAの機内誌「空の王国」に連載していたエッセイをまとめた「泣きたくなるような青空」。開けば、いまここにいながら、旅路へと踏み出すことができる。風景に潜む「影」を掬い取る吉田さんの言葉。見慣れた景色がどこか違って見えるようになる。どこにも行けなくても、旅はできるんだと希望を持てました。(集英社文庫、2021年1月25日初版)
そこに「ない」もの
150ページ超の短い本ではあるけれど、お気に入りの箇所がいくつも見つかる。中でも、吉田さんが描写する夜や闇の様子が好きだ。
夕食を終えて、部屋に戻った。タバコを吸おうとベランダに出る。一面の雪景色だった。まさに深々と降り積もる。
ぼくは何かを忘れてきたような気がした。しかしタバコもライターもある。
次の瞬間、気がついた。そこに音がなかったのだ。(p112)
旅先というのは新鮮だ。だから目に見えるものに驚き、満たされるような思いを抱く。しかし吉田さんは、その中に潜んでいるものに目を凝らしているように思う。いまここに足りないもの、なくなったもの。
白銀世界の静寂を「忘れてきた」と思えるか。自分ならきっと、空間に満ち満ちた静寂に感嘆することはあっても、結果的に消えてしまった日常の音を省みることはないような気がする。似たようなことであっても、この感覚には違いがある。
どうしても、吉田作品の「影」を思わざるいられない。「悪人」は不幸と言えないまでも満たされない男女の出会いが悲劇につながった。「怒り」は新しく生活に入り込んできた好ましい人物が、許されざる罪を背負っているのではないかという懐疑が主人公たちを焦らせた。
裏を返すと、ある景色の前に立ち止まり、あえて振り返ったり、内省したりするところに静かな感動が芽生えるとも言えそうだ。「日常を違った角度から見てみよう」といえば月並みだけれど、そこに「ない」ものに目を凝らすというのは、一つの有効な旅の技法に思えてくる。
吉田さんのエッセイが暗いと言いたいわけでは断じてない。たとえば学生の時に「笑っていいもの」を観覧した時の思い出が素晴らしい。
ただ唯一なぜかはっきりと覚えているのは、座っていた座席のクッションが破れており、そこにガムテープが貼ってあったことで、テレビ番組というのは手作りなんだと気づかされたことだ。(p88)
これもまた真似できない。ガムテープの一片にテレビ番組の手作りさを見出す。どことなく物語のにおいがしてくる。
故郷の長崎、「おわら風の盆」が行われる富山市八尾町、スイスの首都ベルンの川、小説作品の舞台になった台北、そして表題の「泣きたくなるような青空」に出会える場所。吉田さんはあちこちに行く。わたしたちを連れ出してくれる。そこの光だけでなく影も慈しむ。まだしばらくはどこにも行けないかもしれないけれど、少し晴々とした気持ちになれた。
次におすすめする本は
その吉田さんの「路(ルウ)」(文春文庫)をぜひ手に取っていただきたい。上記の通り台北を舞台にした青春小説で、台湾の屋台のにおいや熱帯的な空気、旅情がたっぷり漂います。1章1年ごと、数年単位でのんびり進む物語の時間軸も、かりかりしがちな今の心情を解きほぐしてくれるはずです。
詳しい感想はこちらに書きました。