差別される側を襲う二重の暴力ー読書感想「ニッケル・ボーイズ」(コルソン・ホワイトヘッドさん)
差別の理不尽は「二重」である。そのことを教えてくれる小説でした。コルソン・ホワイトヘッドさん「ニッケル・ボーイズ」。1960年代米国、キング牧師のレコードを擦り切れるまで聞いて、公民権運動に希望を抱いていた黒人の高校生が、冤罪で少年院に送られる。そこは白人による暴力が支配する地獄だった。文体はあくまでクールなのに、描かれる暴力はどこまでも痛々しい。いま現実に起きる差別を考える手掛かりにもなりました。(藤井光さん訳、早川書房、2020年11月20日初版印刷。ピュリッツァー賞受賞作)
不規則な暴力
そのシーンは声が出そうなくらい苦しかった。
主人公エルウッドは被害者であるだけではなかった。その被害を「当たり前」として受け止めず、なんとか変えようとしていた。キング牧師が繰り返し説いていたからだ。だから、不本意な成り行きで送られた少年院ニッケル校でも正義を実現しようと、生徒同士のいじめに介入した。
すると、白人看守スペンサーらに懲罰房へ連れ出された。「騒ぎ」を起こしたからだ。その場所は「ホワイトハウス」と呼ばれていた。
いじめた側のブラック・マイクは、傷つけるために丹念に加工された鞭で28回お尻を叩かれた。次はいじめられていたコーリー。いじめらている側をなぜ叩くのかも意味が分からないが、それだけではなかった。被害者のコーリーは加害者の倍以上の70回鞭打たれたのだ。
(中略)エルウッドは何度か数字を忘れそうになった。意味がわからなかった。どうして、いじめた側がいじめられた側より少ない回数なのか。自分が何を受けることになるのかが分からない。理解不能だ。もしかすると、スペンサーとアールも回数がわからなくなったのかもしれない。もしかすると、その暴力には何の規則もなく、管理する者もされる者も、何がなんだかわかっていないのかもしれない。(p86)
ぞっとした。そして気付いた。暴力は二重なんだということに。
まずは「構造的暴力」がある。なぜ白人管理者は黒人を鞭打つことを許されているのか。それはこの時代の当たり前の差別だったからだ。人種間に生じる優位性。白人であるというだけで、強力な権力行使を容認されていた。
そして「不規則な暴力」。構造的暴力をどう行使するかは、管理者に委ねられている。そこにルールがあるようで、ない。もしも構造的暴力にそれでもルールがあるなら、いじめられた側の罰はいじめた側の罰より少なくあるべきで、介入者のエルウッドはなおさらだ。でも、そうした「予測可能性」は適用されない。暴力はあくまで管理者の匙加減で、変化し、ねじ曲げられ、運用される。
だからエルウッドは二重に打ちのめされる。「理解不能」だと。自分が受ける暴力に耐えようとした時、その暴力がなんのコントロールもなしにぶつけられることに愕然とする。わたしたち読者にもその衝撃が伝わってくる。
当然ながら、人種差別を男女差別に置き換えても事情は変わらない。「女だから」という理由で議会や意思決定機関のメンバーから排除されてきた。その構造的暴力を変えようとルールメイクが進んだと思ったら、「女がいると会議が長い」とか「話が長い」とかいう「新たな偏見」を「男」が持ち出して、ルールそのものを壊そうとする。あくまできまぐれに、不規則に。
こうした「不規則」は加害者しか持ち得ないことを、わたしたちは繰り返し胸に刻むべきだ。振り回すのは看守であって、エルウッドは常に振り回される側。そして看守らは、自分が不規則であることすら、認識できずにいる。
人種差別か?という「暗い雲」
差別の「本質」を、コルソンさんは巧みに劇中に練り込んでくる。でも決してくどくはならない。筆致はクールに抑えられているのがいい。
たとえばこんなシーンがある。壮年になったエルウッドが飲食店に入る。
接客係は水色のヒッピー風ワンピースを着た、その手の白人の女の子だった。針金のように細い両腕に沿って漢字のタトゥーがあるが、その意味はまったくわからない。彼のことが見えていないようなそぶりなので、いつもの「人種差別か、劣悪なサービスか」と考え始めた。(p229)
飲食店でだめだめなサービスを受けた時、エルウッドは「人種差別か、劣悪なサービスか」と考えざるを得ない。これもまた差別の本質だ。
仮にエルウッドが白人であれば、迷うことなく劣悪なサービスだと思うだろう。人種差別を「する」側であって、「される側」ではないのだから。でも「される側」はいつだって、これが差別なのかという疑念に絡め取られる。
その「暗い雲」を心に抱えて生きていくことがハードじゃないか。言うまでもなくこれはジェンダーでも、性的指向でも、出自でも、なんでもそうだ。自分が受ける不利益がいったい何に起因するのか。それはアンコントローラブルなのか。考えさせられること自体が差別の結果だろう。
最後に付け加えたいのは、「ニッケル・ボーイズ」は差別の凄まじさを学べる点を抜きにしたって、極上のミステリーであるということだ。エルウッドはニッケル校で皮肉屋のターナーと心を通わせる。そして2人で理不尽をくぐり抜けようとする、最高のバディ小説でもある。とっておきの伏線も隠れている。この物語を味わうためにも、ぜひ本書が広く読まれてほしいと思う。
次におすすめする本は
タナハシ・コーツさん「世界と僕のあいだに」(慶應技術大学出版会)です。親から子へ宛てた手紙という形式。子に待ち受ける社会の不条理を優しく、でもはっきりと示そうとするタナハシさんの言葉が胸を揺さぶります。本書を読むと「ニッケル・ボーイズ」の世界は決して現実離れしていないとわかります。