読書メモ:川上未映子『乳と卵』
最近は物語を読むことにも興味があり、川上未映子の本に手を出してみた。いやー、すごかった。作品のテーマ性もすごかったし、文体もすごかった。
女性として自らの身体に向き合うということ
本作のテーマを短く言葉にするなら、女性の身体に訪れる変化とどう向き合うかということだろう。
女性として生きていく過程で、その身体は大きな変質を遂げる。まずは初潮が訪れ、乳房が膨らみ始め、その身体は子どもを作るための機能を持つようになる。この変化は、本人が子供を持つことを望むか否かとは無関係に生じるものだ。
妊娠・出産の適齢期のころ、女性の美しさのピークもまた訪れる。そしてそのピークを過ぎたり、出産を経験したりすると、容姿やプロポーションは衰えていく。この変化もまた、本人の希望とは無関係に進んでいく。
本作では、主人公である「わたし」は姉の巻子とその娘の緑子を自宅に迎える。この2名が、それぞれに自分の身体の変化に悩み、考えているのだ。
姉の巻子は、豊胸手術を受けるために滞在にきた。40歳のバツイチのホステスであり、その身体はガリガリに痩せている。彼女が豊胸手術を受けようとするのは、ライフステージに伴った容姿の衰えを受け入れることができないからだろう。
巻子の娘の緑子は多感な時期を迎えている。クラスのみんなはだいたい初潮が来ていて、自分も近いうちに生理を迎えるというころだ。彼女はその戸惑いをノートにつづる。
あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる。
この記述が示すように、自らの考えや人生観とは無関係に、身体が勝手に子どもを産むモードに向かっていくことに、彼女は戸惑いを覚えているのだ。そして、豊胸手術という形で女性にとどまろうとする母親と会話ができなくなっている。
女性であることにしがみつきたい母と、勝手に女性になろうとする自分の身体に戸惑う娘。そのコントラストが必見なのである。『乳と卵』というタイトルが何を指しているか、説明するまでもないだろう。
完全一人称の文体
テーマ性としても興味深いものだったが、驚いたのはその特徴的な文体だ。少し眺めてみよう。
巻子はもともと性格が暗い、というほどではないけれど、おしゃべりというのでもないし、うんと子どものころはいわゆる引っ込み思案とでもいうのかしら、友に交われないですね、という理由で母親が担任の教師に呼び出されたりしていたのをわたしは覚えていて、友達が少なく、それはわたしのほうもそうであったから二人はいつも行動をともにしておった。自転車の荷台にわたしを乗せて際限なくペダルを巻子が回し、わたしらが行ける範囲のあらゆるところを走り巡り、その頃を何となく思い出せば何となく自動的に甦るのは巻子の指先で、巻子はいつもいつも爪を激しめに噛んでいて、噛む爪がなくなっても噛むのを止めないので、その先からはいつもちょっとした血が滲んでいるのやった。
この塊で2文、1文あたり150字程度である。最近読んだ文章の書き方本では「推奨される一文の長さは20~40字、長くて60字」と書かれていたのだが、それをあざ笑うかのような文体である。それでも読めてしまうからすごい。
気づいたのは、情景描写もすべて、1人称の視点から語られているということだ。例えば「主人公の表情を月夜が照らし出して…」と書く場合、その語り手は作中の人物ではないだろう。作者の視点か、それとも神の視点が存在するわけだ。
その点、川上未映子の文体では、情景描写も含めて何から何まで主人公というキャラクターのフィルタを通している。これが絶妙な効果を生んでいる。そもそも、物語というのは登場人物の心情や経験を追体験するものである。とはいえ、例えば映画やマンガでは、登場人物の目線で最初から最後まで描かれるということはまずありえない。映像的な単調さを生み出すし、そもそも主人公の顔が見えなくなってしまう。
その点、小説ではそれが許されるのだろう。川上未映子は主人公以外の語り手を文章から排除することで、徹底的に主人公の思考や知覚を読者にトレースさせているのではないだろうか。
豊胸手術をしようとする姉、身体が女性になろうとすることに戸惑う姪を迎え、それぞれの在り方を観察する「わたし」。その「わたし」を自分は追体験した。30代男性が、女性という性を生きることの悩みを濃密に追体験したのだ。
素朴な感想
女性作家による、女性という性への悩みというのはよく描かれるテーマなのだろうか。かなり長いこと小説を読んでこなかったので、潮流がわからない。ただ、最近自分が読んだのは村田沙耶香と川上未映子であり、そのどちらでも女性という性を生きることの悩み、葛藤が描写されていた。前者は社会的な同調圧力として、後者は生物学的な宿命として、女であることを強いられることへの葛藤だ。
小説ということで、何か知恵をつけたくて読んだわけではないのだが、振り返ってみるという「女性が、女性という性を生きることで感じるもろもろの葛藤、生きづらさ」というものについて理解が深まった気がする。
小説という形で、感性の鋭い作家から世界がどう見えているのかを教えてもらうというのも、やはりいいものだ。
話を作品そのものに戻すと、表現が面白かったなぁと思う。姉と姪が本音をぶつけ合うシーンでは、お互いが生卵を自分の頭で割りながら話すというシュールな光景が展開される。
この作品において、卵は卵子の意味を持っているだろうから、その卵を割りながら話すというのは、この時の二人は女性という性の束縛から離れ、一人の人間として話しあえたということなのだろう。
本音をぶつけ合えた姉と姪はいい感じになり帰っていく。それを見送るとき、主人公は二人に豆乳を飲むように勧める。豆乳に含まれているイソフラボンは女性ホルモンに構造が似ており、女性らしいからだ作りをサポートしてくれる。それを勧めるということは、女性として生まれたことを肯定し、女性としての生をよりよいものにしようや、ということだろうか。
女性の身体は、年齢とともに子どもを産める身体になる。そして男性からみて魅力的なプロポーションになり、年齢とともにその魅力は失われていく。
これらの変化は純粋に生物的なもので、本人の価値観や判断が反映されたものではない。それに付随する悩みを描きつつも、それを受け入れたり、乗り越えたりすることが可能なものとしても描かれているようにも受け止めることができ、なかなかいい読後感だった。