【読書感想文】教養としてのテクノロジー(伊藤穰一)
僕たちは何を楽しみを感じ、何に喜びを感じ、何になりたいのかをということを考えられているでしょうか。
MITといえば、僕でも聞いたことのある有名な工科大学であり、イノベーションが常に創発されていることを想起してしまう場所です。
そのラボで所長を務めるのが日本人だということに誇りを感じているのは僕だけではないでしょう。(まぁ、勝手に感じているのですが...笑)
本書内で強く強く強くメッセージとして込められているのは"いまを生きる大切さ"です。
僕たちはどれだけ日々の生活にこだわりを持って生きているでしょう。
冒頭の文書を書いた理由は、そんな事を考えたからでした。
生活の中にこだわりがあるということは、常に良い方向にしていこうという思いを抱きながら生活していることを意味します。
例えば、仕事に行く、学校に行く、遊びに行くという何か行動を起こす際に、自分の中で大切にしていることが何かを考えることをしているでしょうか。
洋服にこだわりを持つことや靴にこだわりを持つのでもいいかもしれませんし、目的地へ辿り着くための手段についてこだわるのでも構いません。
何にしても、もっと良い方法やもっと素敵になる方法を考えているでしょうか。何かをこだわることが、いまに対するこだわりになり、そのこだわりはすべて満足を得るために必要なことです。
子どもたちは周りが見えなくなるぐらいにギュッとのめり込んでしまう瞬間があります。
僕と生活をともにする4歳の長男もなにかに食らいつくと、そこから意識を引き剥がすのに大変苦労していますが、それぐらいにのめり込んでしまうことが多々あります。
それを大人は自らの生活時間を守るために遮ろうとしてしまうことがありますが、果たしてそれは本当に子どものためになっているのでしょうか。
人生はおとなになってから始まると一般的な教育では考えられていますが、果たしてそれは真実であり、真理なのかは考えるべきでしょうし、親は子どものいましていることは将来に向けての準備でないと意味がないと考えるけど、それは本当でしょうか。
子どもの将来は誰のためであるかといえば、子どものものです。共に生活する大人のものではありません。
大人が子どもに成功してほしい、幸せになってもらいたいと願うことは否定しませんが、自らの願望を押し付けることは子どものためではありません。
自らの願望を押し付けることは、子どもに自分の人生を代替してほしいと依頼する行為であり、子どもの人生に対する冒涜になります。人は他人の人生を生きるために生まれてきたのではありません。
"いま"を必死に生きること、"いま"にこだわりをもつことは子どもであろうが大人であろうが関係なく、誰に対しても必要な考え方でしょう。
子どもが取り組むことが大人になったときに必要だというのであれば、おとなになってから何かを始めることは無いのでしょうか。
子どもの時が”おとなになるための準備”だというのであれば、いつまでも準備が終わらないことになります。恐らく、「自分は〇〇の準備をしたから大人になった」という人は皆無ではないでしょうか。
なぜなら、大人がすべて準備が整った完璧な存在ではない、というところに答えがあるのではないかということにありそうです。
なぜなら、もっと良くなりたい、もっと良くなっていたいと願う気持ちは常に抱いているはずで、それがなくなったときには人生に何の張り合いもなくなっているでしょう。
だからこそ、いまを大切にしようと著者は述べています。
本書では、技術の革新が進むに連れ、身体的多様性の高い人達がいわゆる健常者と呼ばれる身体的多様性の低い人達の運動能力を凌駕することも予想しています。
つまり、オリンピックよりもパラリンピックのほうがよりダイナミズムに溢れた楽しくなる可能性が見えてきたということです。これをどうみるでしょう。
僕はそんなパラリンピックを見てみたいと思います。近い将来にはオリンピックとパラリンピックの境目がなくなり、同一開催というのも十分にありえるでしょう。
現実、オスカー・ピストリウスという両足義足のスプリンターは世界陸上はもちろん、ロンドンオリンピックにも出場し、決勝には進めませんでしたが、どちらも準決勝まで進んで見せました。
(彼の起こした事件について、本記事では一切考慮せず、競技者としての彼に焦点を当てています。)
すでに身体的な(パフォーマンス発現)能力に恵まれたパラリンピアンがオリンピアンと同等以上に競技を行えることを我々は目にしています。
それが当然の世界になったとき、健常者と呼ばれる人たちは純粋な気持ちで応援することが出来るのでしょうか。それとも"ずるい"と文句を言い、せっかく一緒になった大会を別物に戻すのでしょうか。
それを想像するときにワクワクするのは、その高い運動能力を発揮するために開発された技術は、一般生活にも落とし込まれていくということです。
むしろ、より性能の高いものが出来上がる可能性があります。
それは多様性に富んだ社会の中で差別をなくすことにつながるでしょうし、どちらがあこがれの対象となるのかは現段階に置いて誰にもわかりません。
わかりませんが、"健常者"というある意味での蔑称に無理が生じてくるのではないか、というのは想像に難くない状況容易に想像できます。
いま、僕には一緒に生活をする子どもがいますが、彼らに伝えているのは、"おかしい人"なんてのは存在しないし、自分と違うこと、それは個性だということです。
おかしい、変わってる、という言い方をするのは"自分が正しい"という態度は傲慢であり、人を馬鹿にしているともいえます。
それはいまに必死になっているのではなく、過去にあったことからなんとか自分の中での正解にすがろうとする不勉強者の態度であり、そんな態度を取る隙があるのであれば、いま、夢中になることに必死になるべきです。
"いま"を大切にすることは、年齢や性別、人種も関係なく、誰にでも与えられている権利であり、それを邪魔することは誰にもできないんです。できるとしたらブレーキをかける自分だけ。
そんなことを感じさせてくれる本でした。