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『あかり。』#26 チベットへ行かないか? 相米慎二監督の思い出譚
その夏、監督と一緒にチベットへ旅をした。
その旅が、僕の歩いていた道を急激に迂回させることになった。
春先だったか。赤坂見附で行きつけにしていたAという喫茶店があった。メガネをした蝶ネクタイの店員が律儀に珈琲を淹れてくれる少し昔ふうの店で、監督はそこが気に入っていた。
一緒に珈琲を飲んでいたら、唐突に言われた。
「村本くん、一緒にチベットに行かないか?」
「え? チベットですか…」
「おお。一度行っとかないととは、ずっと思ってたんだよな」
監督は、こういう言い方を時々する。見とかなきゃならない映画・舞台。読んどかなきゃいけない本、ずっと行きたいとは思っていた場所……。
「いいですねー。チベットですか…行ったことないです」と、とりあえず相槌を打つ。
「会社休めんの?」なぜか、監督は不機嫌そうに言う。
「いつごろですか?」
「夏だろうな」
「あ、大丈夫だと思います。どれくらいですか?」
「二、三週間じゃないかな」
「わかりました」
「じゃあ、これ読んでおいて」
と、分厚い本を渡された。
『逃(TAO)』
合田彩さんが書いた小説だ。
「あ。自分で買います」
僕は、その本のタイトルをメモした。
その場は、簡単な小説の中身の説明を受けて別れたように思う。
「こいつらがおもしれえんだ」と、監督はさもおかしそうに笑っていた。(主人公の二人のことだ)
僕は帰りに紀伊国屋書店に行き、その本を手に入れた。
確か、そのままnew DUGに行き、少し読んだ。
中国人の前衛画家が、日本から来た留学生と恋に落ち、やがて彼の反社会的な作風もあって政府にも追われることになる、天安門事件も絡みつつ、遠くチベットまで逃避行する物語だった。やがて二人はニューヨークに向かう……。
一気にその晩、読み終えると、僕は興奮した。
(監督が本気を出す映画なんだ……だけどこんな話、どうやって映画にするんだ…?)
この二年、CMを撮りながら、監督が密かに撮ろうとしていたのは、まさにスケール感のある映画らしい映画だった。アート・恋・人種・政治・広大で残酷な自然・国家・街・人々・人間……。
この作品が実現するのだったら…そばで手伝いたい。率直にそう思ったのが、読後の感想だ。
いくつかのハードルは自分にあったが、それはなんとかなる。というより、なんとかすればいい。
僕は会社に休暇願いをいつ出すか考えながら、眠った。
「監督、一緒にチベットに行きます」
と、報告すると監督は軽く顔をしかめて「大丈夫なの?」と言った。
自分で誘っておいて、こういうところが監督はずるい。
「大丈夫です」(確信はない)と、僕は即答した。
後の自分の人生に関わる旅になることが、そんなふうにイージーに決まったのだった。
次に僕が買ったのは『地球の歩き方・チベット篇』である。
僕はチベットについて、ほぼ何にも知らなかったのだ。